物はどうせいつか壊れるもの

奈々さんにはお小遣いは与えられていたが、必ずしも好きなものを買うことはできなかった。父親が「あれはダメ、これもダメ、こっちにしろ」と指図し、その通りにしないとどうなるかわからない恐怖から従うしかなかったのだ。

「小さい頃はセーラームーンが大好きで、母が買い与えてくれたセーラームーンの服をよく着ていました。父は、私が好きなものに理解を示してくれたことはないと思います。好きなものというか、『これだけは大切にしたい』と思うものがかつては私にもあったと思うのですが、父がたびたび家の中で暴れて、さまざまな物を壊すので、次第に、『これだけは大切にしたい』と思うものを持つことを諦めるようになっていきました。『物はどうせ、いつか壊れるものだから』と……」

筆者は奈々さんに、具体的には何歳くらいの頃、どんなものを壊されたか訊ねたが、

「お気に入りのお皿……くらいしか覚えていません。あまりにショッキングなこと過ぎて、忘れてしまっているのかもしれません……」

と答えた。

奈々さんに取材をしていると、度々「覚えていません」「思い出せません」ということがあった。もしかしたら奈々さんは、解離の症状があるのではないかと思った。

奈々さんが小学校に上がってしばらくすると、母親は自宅でピアノ教室や学習塾を開いた。忙しくなってきたせいか、母親は毎週日曜日を「家事お休みデー」と決め、掃除や洗濯はもちろん、料理まで、一切の家事をしなくなる。そのため日曜の奈々さんの食事は、菓子パンやスナック菓子。父親は、土日は自分の実家の農業を手伝いに行っていたため、「家事お休みデー」のことは知らなかった。

菓子パン
写真=iStock.com/Asobinin
※写真はイメージです

「うつ病」になった父娘

幼稚園から同じ系列の私立の中学に通っていた奈々さんだったが、3年生になると高校受験のため、母親に塾に入れられる。

同じ頃、50代後半の父親が仕事(公務員)のストレスで精神的に疲弊し、仕事を休みがちになる。病院を受診すると、「うつ病」と診断された。

ある日、体調が悪かった奈々さんは、「今日は塾に行きたくない!」と訴えた。しかし母親は、その言葉を無視。奈々さんを無理やり車に乗せ、塾に連れて行った。

「母ですら私の味方にはなってくれないのだなと思いました。塾の先生方は、私の体調が悪いことには気づいていたようでした。今までならもっと速く解けていた計算問題が、明らかに解くのが遅くなっていたからです。私は、“脳が情報を受け付けてくれない”といった初めての感覚を覚え、愕然としました。その時すでに私は、『うつ病』だったのではないかと思います」

「うつ病」と診断された夫と、診断されてはいないまでも、「うつ病」のような症状の娘。具合の悪い2人を1人でケアすることは無理だと判断した母親は、父親には車で40分程度離れた実家に移るよう言いくるめ、事実上別居状態になった。(以下、後編に続く)

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