嘉子の母ノブも脳いつ血で急逝、その9カ月後も葬式を出す
さらに、嘉子の母、ノブも脳いつ血で突然、世を去った(昭和22年〔1947年〕1月)。心労が重なったのだろう。
芳武は4歳。祖母の死去の日も、彼は覚えていた。
芳武「おだやかな日でした。母の嘉子は、洗濯物を干すため、さおをふいていました。祖母は井戸端で洗濯をしていて、急に倒れたのです」
筆者「どんなおばあさまでしたか」
芳武「行儀にうるさく、怒ると怖かったです。しかし、いつもはとても優しかった。祖母が四角いかごを背負ってぼくを中に入れ、新潟の瀬波温泉まで連れて行ってくれたこともありました」
筆者「どんなおばあさまでしたか」
芳武「行儀にうるさく、怒ると怖かったです。しかし、いつもはとても優しかった。祖母が四角いかごを背負ってぼくを中に入れ、新潟の瀬波温泉まで連れて行ってくれたこともありました」
嘉子の父、貞雄も9カ月後に亡くなった(昭和22年10月)。
筆者「おじいさまは、シンガポールやアメリカにも行かれ、進歩的な方だったそうですね」
芳武「ぼくが覚えているのは、祖父がよく酒を飲んでいたことです。肝硬変になり、足がむくんで亡くなりました」
芳武「ぼくが覚えているのは、祖父がよく酒を飲んでいたことです。肝硬変になり、足がむくんで亡くなりました」
生活のため働かなくてはならなくなり、弁護士より裁判官を目指す
嘉子は相次いで、弟、夫、母と父に死なれた。幼い芳武をかかえて、生活していかなければならない。彼女はこう書いている。
「それまでのお嬢さん芸のような甘えた気持ちから、真剣に生きるための職業を考えたとき、私は弁護士より裁判官になりたいと思った。
昭和13年に受験した司法科試験の受験者控室に掲示してあった司法官試補採用の告示に『日本帝国男子に限る。』とあったのが私には忘れられなかったのである。(中略)同じ試験に合格しながらなぜ女性が除外されるのかという怒りが猛然と湧き上がって来た。(中略)そのときの怒りがおそらく男女差別に対する怒りの開眼であったろう。当時は司法官のみならず女性は官吏には採用されなかった。(中略)
ともかく、私は男女平等が宣言された以上、女性を裁判官に採用しないはずはないと考えて裁判官採用願を司法省に提出した。当時司法省の人事課長であられた石田和外氏(後の最高裁判所長官)が、私を坂野千里東京控訴院長に面接させた。
院長は、はじめて女性裁判官が任命されるのは、新しい最高裁判所発足後がふさわしかろう、弁護士の仕事と裁判官の仕事は違うからしばらくの間、司法省の民事部で勉強していなさいといわれ、裁判官としての採用を許されなかった。間もなく新憲法が施行され、最高裁判所が発足するという昭和22年3月のことであった」(『追想のひと三淵嘉子』)