「祈りの長崎」だけでなく「もの言う長崎」が出てきた

実際、GHQが『長崎の鐘』の出版を許可したのは、原爆被害を受け入れ、災害のように描いているからだ、との見方がある。深刻な物資不足の折り、GHQがこの本のため用紙を融通すると申し出た、とも言われている。

そもそも永井を見出したのは、西九州に駐屯していた米軍だった。「わが身を実験台に、原子病の究明に励んでいる」科学者として1947年に発表したのを全国の新聞が取り上げた。永井がマスコミで引っ張りだこになるきっかけとなった。

このようにして徐々に、「もの言う長崎」が「祈りの長崎」から枝分かれしていった。もともと浦上には隠れキリシタンの歴史があり、江戸末期から明治にかけて起きた「浦上四番崩れ」をはじめ、厳しい弾圧を4回も経験した。島原や五島でも、数百年にわたり信仰をあきらめず、抵抗を続けてきた過去がある。祈りと抵抗、という長崎のキリスト教徒が持つこの2つの面が、原爆被害の受け止め方にも表れているようにも見える。

平成の時代に2人の「もの言う長崎市長」が銃撃された

「昭和天皇は戦争責任がある」と発言し、1990年に銃撃を受けた五島出身の本島等・長崎市長も、熱心なキリスト教徒だった。本島はもともと自民党所属の保守派。そうした人物が、当時タブーにされていたことを口にする。本島はその後、アジア太平洋諸国を侵略した日本の加害責任についても、積極的に語るようになった。長崎には、そのように簡単には説明できない重層性がある。

近年、広島市長より、長崎市長が平和宣言などで語る言葉の方が、より骨太で腰が据わった内容だと評価されることが増えている。悲劇的にも、2007年に暴力団組員により射殺された伊藤一長・長崎市長も、国際司法裁判所の陳述の場で、アメリカの原爆使用は国際法違反だ、と無残に被爆した少年の写真パネルを掲げ、涙と共に訴えている。もともと自民党などの支援を受けてきた政治家だった。

市職員出身の田上富久市長も、2014年の平和宣言で、集団的自衛権を巡る議論について懸念を表したことがある。その後自民党議員から反発を受けたが、国際的にも国内的にも、平和と軍備については「もの言う長崎市長」が続いている。鈴木市長は、こうした市長たちの系譜を引き継ぐ立場だ。

はたして鈴木市長が背負っているものは何だろう。

鈴木市長は実は、「被爆建物」だった浦上天主堂を撤去してしまった田川務市長(1897~1977年)の孫に当たる。

原子爆弾によって倒壊した浦上天主堂、1946年1月7日
原子爆弾によって倒壊した浦上天主堂、1946年1月7日(写真=相原秀次/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

爆心地に近い浦上天主堂は徹底的に破壊されたが、中でも熱線で顔を焼かれたマリア像は、涙を流しているように見えた。もしそれらが当時のまま残っていたら、長崎の原爆被害のアイコンになっただろう。

なお、当時の浦上天主堂の映像は、1956年に公開された亀井文夫のドキュメンタリー映画『生きていてよかった』で見ることができる。