天皇やヘレン・ケラーにも慰問された永井は死後も影響力を持つ
原爆肯定とも読める、この永井の主張は、後に強い批判を呼んだが、当時は違った。ベストセラーになった『長崎の鐘』は映画化され、人気歌手の藤山一郎が同名の曲を歌った。覚えやすく甘いメロディで、センチメンタルな心情を歌った曲は大ヒットした。メディアミックスでブームを作り出す手法は、既に健在だった。
ただ、歌詞には原爆は一切出てこなかった。映画の方も、永井を悲劇のヒーローのように取り上げるだけで、原爆被災シーンは皆無だった。
その後、永井は偉人のように見なされるようになる。死期を悟りつつ、遺される子供たちや長崎のことを案じるエッセイを書き続ける永井を、昭和天皇やローマ法王の特使、ヘレン・ケラーが慰問に訪れた。永井は最初の長崎市名誉市民に選ばれ、国会でも、日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹と同時表彰された。
1951年に死去した後も、長崎では永井の強い影響力が残った。「怒りの広島、祈りの長崎」――戦後しばらく、広島と長崎はそう対比されていたが、「祈りの長崎」と言われるようになった背景に、「長崎の鐘」を道具立てにした一連のブームがあった。
1960年代後半から永井批判が起き、長崎市民も原爆被害を訴える
一方、広島では、怒りと共に被爆の実相を告発する人たちが前面に出た。1952年春に占領が終わり、日本が主権を回復すると共に、本格的な原爆報道が始まった。
報道以外の分野でも、それまで禁じられていたビジュアルな描写を初めて行った一人に、広島出身の新藤兼人監督がいる。“解禁”となって最初の1952年8月6日に狙いを定めて、広島の少年少女の被爆手記を集めた『原爆の子』を映画化し、公開した。
広島で被爆した原民喜、大田洋子、峠三吉らの文学者が書いた原爆文学や原爆詩も広く知られるようになり、広島出身者が目立つ時期が続いた。
しかし、長崎では、それまでタブーになっていた永井隆批判が始まったのは戦後20年もたった1960年代後半のことだった。口火を切った一人が、被爆者運動の中心人物だった医師の秋月辰一郎。永井と師弟関係にあったが、「ついていけない」「原爆を語れば、それは反米分子であり、革命分子であると見なされるようになった」「ひたすら祈りを捧げるだけになってしまった」などと声を上げた。
追って永井の批判を始めたのが、詩人の山田かんだ。秋月と同じく、キリスト教徒だった。「被爆の実態を歪曲し、あたかも、原爆は信仰教理を確かめるがために落されたというような荒唐無稽な感想を書きちらした」「ジャーナリズムはそれらを厚顔にももてはやすという、まさにアメリカ占領軍の意を体したかのごとき活動を行いつづけた」などと痛烈に批判した。