「国司の任命権」は藤原氏が握っていた
この「国司の不正システム」をもっとも活用したのが、あの藤原道長です。
藤原道長は、「摂関政治」で一時代を支配した藤原氏の象徴的な人物です。藤原氏は娘を天皇に嫁がせて、次期天皇の外祖父となり、摂政・関白という天皇を補佐する役職に就いて権力を握りました。
藤原氏の権力が絶頂のころ、国中の主な国司の任命権は藤原氏が握っていました。
そのため、藤原氏には国司や国司希望者から多額の賄賂が贈られていたのです。
寛仁2(1018)年には、藤原道長の邸宅を諸国の国司に割り当てて造営させ、その際に国司の伊予守源頼光が家具調度一切を献上したという記録が残っています。
また、この当時の国司は京都に帰国するたびに、大量の米と地方の産物を藤原一族に寄進しています。
藤原道長の時代は賄賂が富の主財源だった
藤原氏というと、荘園で巨額の富を築いたというイメージがありますが、藤原氏が荘園を拡大したのは12世紀以降のことであり、藤原道長の時代では賄賂が富の主財源だったのです。
つまり、藤原氏は賄賂によって「我が世の春」を謳歌していたわけです。
しかし、この藤原氏の蓄財術は、自分の墓穴を掘るものでもありました。
国司たちは本来国に治められるべき税を不正に横取りしていたのです。そして、国司が藤原氏に巨額の贈賄をするということは、国司たちはその贈賄分よりも大きなメリットがあったということです。
つまり、藤原氏が受け取っていた賄賂の何倍もの富が国司の手に渡っていたわけです。
その分、国の税収が減っていきます。国の税収が減り、朝廷の権威が落ちていけば、藤原氏の存立基盤も危うくなっていくのです。
藤原氏など平安の高級貴族たちというのは、なんやかんや言っても、朝廷の威厳の中で生きていました。朝廷に威厳があるからこそ、その朝廷の中で高い身分である彼らが栄華を謳歌できていたのです。
国司たちの不正を容認し、朝廷の財力が削られていけば、やがて自分たちの存立基盤が脅かされることになります。
藤原氏をはじめとする平安時代の高級貴族たちは、そこに気づいていなかったのです。