藤原道長はなぜ絶大な権力を握ることができたのか。元国税調査官の大村大次郎さんは「藤原道長は荘園そのものよりも、平安貴族の間で横行していた『脱税システム』を利用して巨万の富を得ていた」という――。(第1回)
※本稿は、大村大次郎『脱税の日本史』(宝島社)の一部を再編集したものです。
国司の腐敗をなくそうとした菅原道真
荘園が拡大して朝廷の財源が減るのは、徴税責任者である国司の腐敗が大きな要因でした。朝廷もこの弊害を認識し、たびたび国司の改善策を打ち出しました。
たとえば、天長元(824)年には次のような法令が出されています。
・観察使を派遣し国司の業務を監視させる
・優秀な国司は複数の国を兼任させる
・国司は任期中に一、二度入京し、天皇に業務報告を行う
このような朝廷の努力にもかかわらず、国司の腐敗は改まりませんでした。国司は有力貴族が後ろ盾になっているので、簡単にはつぶすことができなかったのです。
国司の腐敗をなくそうとして、逆に悲劇の最期を遂げたのが、かの菅原道真です。
菅原道真に濡れ衣を着せた藤原時平が不審な死を遂げる
菅原道真は、貴族としては名門の出ではありませんでしたが、230年間でわずか65人しか合格者が出なかったという、当時の最高国家試験である文章得業生に合格するなど秀才ぶりを発揮し、讃岐守(現在の香川県知事にあたる)などの重要ポストに就いて、当時の宇多天皇の信頼を得ました。
そして、昌泰2(899)年には右大臣、現在の首相のような地位にまで上り詰めます。
しかし、その直後に無実の罪を着せられ、昌泰4(901)年、大宰権師(大宰府の副指令長官)に左遷されてしまいました。その後、名誉を回復することなく、京都に帰ることもないまま、大宰府で死んでしまうのです。
菅原道真に濡れ衣を着せた藤原時平やその関係者が次々に不審な死を遂げたので、一時は「道真の祟」と言われ、朝廷はパニックに陥ります。
学問の神様として名高い「天満宮」は、菅原道真の霊を慰めるために建てられたものです。