朝廷は国司の中間搾取を認める

平安時代になると、国司は一定の徴税分だけを中央に送り、残った分は着服するようになっていきました。つまり、国司による中間搾取が多くなったのです。

農民たちは朝廷に訴え出たり、国司を襲撃するようなことも頻繁に起きました。

しかし、すでに述べたように国司の抜本的な改革をしようとした菅原道真は、他の貴族たちの猛反発をくらって失脚し、大宰府に流されてしまいます。

やがて、朝廷は国司の中間搾取を認めるようになります。一定の税収を確保できれば、それを上回った分は国司の取り分にしていいということになったのです。

朝廷としては、財源を確保するための苦肉の策でしたが、農民たちはたまったものではありません。

国司は規定以上の税を取り立てるようになったり、逆に農民が税を少なくしてもらうために賄賂を渡してくることも多々ありました。こうして、ますます公田が荘園化していきました。

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写真=iStock.com/blew_i
ますます公田が荘園化した(※写真はイメージです)

国司は「美味しいポスト」

当時の貴族たちにとって、国司というポストは非常に美味しいものとなっていました。

特に「熟国じゅくこく」と呼ばれる豊かな地域に赴任する国司は、非常に潤うことになりました。

そのため、貴族たちは誰もが国司になりたがるようになったのです。

しかし、国司になるには、本人の力量よりも門閥の力が重要となっていきます。家柄がよくないとなかなか国司にはなれず、有力な貴族の後ろ盾が必要だったのです。

そのため、国司の希望者は有力な貴族に取り入って家来のようになったり、賄賂を贈ったりもするようになりました。また、有力貴族は自分の息がかかったものを熟国の国司に任命することが多々ありました。