仕事をやめたときに自分には何が残るのか
十数年間仕事をしていると、仕事が自分のアイデンティティのとても大切な一部だと気づかされます。仕事が減っていく心配、引退の心配、お金の心配だけじゃありません。仕事をきっかけにした他人との関係、あるいは社会的な認知もまた、仕事がもたらしてくれた財産です。つまり、仕事がなくなったら、私自身をなんと紹介すればいいのかまったく思い浮かばなくなっているわけです。
いわゆる仕事の延長としての人間関係が余暇活動にもすべてつながっていると、この問題はもっと深刻になります。業界を離れてからも業界の知人たちと付き合うような関係なのか? そうじゃないなら仕事を辞めて残る人は誰で、自分は時間をどうやって使うつもりなのか?
余暇を生産性の観点でとらえると、燃え尽きになった後にどんなことをしてもまったく回復の兆しが見えない現象も発生します。口では余暇と言っているものの、実際にはずっと何かをつくるために努力している途中だからです。「この経験をどうやって活用するか考えないようにしよう」と思わないと、考えてはいけないとも思わないまま、ただ時間だけが過ぎます。そうしてぼんやりと気づくのです。
自分は休み方がわからないんだ、と。
インスタに載せる写真が1枚もない日がちゃんと休んだ日
他人との交流はネットワーキング、週末はアイディア集め、SNSアップロードはブランディング。こうしたパターンで過ごしていると、目的をもたずに休むこと自体をそもそも忘れてしまいます。そして仕事を始めて10年が過ぎてみると、それぞれの分野の成長の勢いは鈍っていて、新たな試みにトライする余暇なしには仕事も生まれなくなっている。
単純に考えてみましょう。マラソンを走るなら100キロマラソンのように走ってはいけません。能率にこだわらない時間をしっかりと確保するべきです。ほかの人たちに知らせなくても、すごい方法で伝えなくても、自ら満たされる時間をつくれるようにしましょう。
肉体疲労は虫眼鏡のようにすべての問題を拡大してしまう傾向があります。だから、しっかりと休ませてあげるべきです。でも休めというと、「どうやって休むのかわからない」という人たちが意外にも多いもの。休むというのは、「する」行動ではなく「しない」行動です。
何かをしなければならない状態をなぜ休息と呼ぶのでしょう。勤勉な現代人ならば、インスタグラムに載せる写真のない一日こそが、ちゃんと休んだ一日です。