※本稿は、近藤康太郎『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』(CCCメディアハウス)の一部を再編集したものです。
「ワーク・ライフ・バランス」という言葉のおかしいところ
ワーク・ライフ・バランスという言葉があります。わたしの勤めている新聞社でも、うるさく言われるんです。近藤さんは何時から何時まで、記事作成ソフトを立ち上げていました。就業時間を超えています。理由を述べてください。……みたいなことを、機械が指摘してくる。
うるせえよ、ほんとうに。ほっとけですよ。
ワーク・ライフ・バランスって言いますけれど、じゃあ、ワークとライフのバランスをどうしようっていうんですか? 六対四とか、七対三とか? 理想が、半々でしょうか?
「仕事とプライベートをきっちり分けて何対何の割合にしなければならないということではない」
そんなことを書いているコンサルタント系の人もいるんですが、じゃあなんだよと。だいたい、ワークとライフを対立概念として抽出している時点で、思想の浅さは歴然です。
ワーク・ライフ・バランスとはつまり、「多様なライフスタイルや生き方を受け入れることのできる職場とするための取り組み」なんて同じコンサルが書いていましたが、正体見たりです。結局、景気の調整弁として、解雇しやすい非正規社員を増やそうとか、高齢者や女性にも“活躍”してもらい、一生、搾取する労働力商品として扱おうという、企業側の魂胆が見え見えです。新自由主義の悪臭芬々。大嫌いな言葉です。
目指すべき「ライフ」とは
この思想の根底にあるのは、ワークとはライフを豊かにするため、カネを稼ぐために嫌々やる苦役という発想です。ワークが五でライフが五なら、まずは文句ないですね、と。
そうでしょうか。わたしは、苦役が五もある人生なんて耐えられません。五割のライフを豊かにするために、人生で五割、苦役を受け入れる。そんなの冗談じゃないです。じっさい、いまのわたしは、そうではない。
ワーク・イズ・ライフ。
ワークが、すなわちライフである。〈仕事〉こそ、一生をかけて完成させる、その人の表現である。作品である。つまりライフワーク。
〈仕事〉が楽しい。深い。価値を感じられる、一生を賭すに足る。
目指すべきは、ここです。