宮古の大人は働いています

取材終了後、宮古の駅前広場にて。右端はサンフランシスコから宮古を訪れた金子やよいさん。

宮古の大人は働いていますか——こちらがこの問いを発した理由は、石巻の取材(連載第26回 http://president.jp/articles/-/8118)で聞いたことばが頭にあったからだ。

久坂「働いてるよね」

赤沼「働いてます」

赤沼さんは、メールでこう補足してくれた。

《ラジオ放送のボランティアをしたときや、お店などを取材するときにそう感じます。建物や機械の破損を懸命に立て直そうとする方々がたくさんいます。あまり被害を受けてないお店も、被災した関係会社を助けたりしています。また、お店ではなく個人として話を聞いた時も復興のことが必ず話に出てきました。お話を聞いたどの人も宮古のことを考えているのだと感じました》

石巻では、被災したことや、ボランティアの多さを理由にして、仕事をしない大人ががいることに対し「それはどうなのかな?」ってずっと思ってる——という話を聞きました。

久坂「こっち、ボランティアは逆に少ない」

久保田「ほしいところにいないですよね」

久坂「交通が不便だからかな。震災後、最初、バーッと来るじゃないですか。もうその後、どんどん、どんどん少なくなってるんで」

一面だけを切り取って、その地を語る危険はこちらも承知している。しかし、どうしても気になる歴史的事実がひとつある。

仙台編で再び触れることになるが、仙台と石巻の間にある野蒜(のびる)という浜に、巨大国際港が計画されたことがあった。明治10年代のことだ。だが野蒜港は建築初期段階の暴風雨で破壊され、明治政府の予算不足もあって築港が放棄された。同時期、宮古は自前で近代港湾に生まれ変わっている。

《昨(引用者注・明治)十七年秋、三陸宮古港の修築が、宮古村・菊地養七、鍬ケ崎村・篠民蔵の発起で村民の自費によって完成した。坪数1万7614坪、工費5万5864円であった。政府直轄の野蒜港がもたついている間に、民間自費による築港が完成し、宮古は三陸沿岸の重要な位置にのし上がり、活動を始めたのである》
(片平六左著『陸前野蒜港記』p.211/1982年、東北港運協会広報委員会/引用者注・句読点と送り仮名を適宜補足)

宮古の大人たちは、少なくとも6人の高校生に「働いている」と言わせるだけのことをしている。それは昨日今日の話ではないのではないか。

高校生に仕事の話を訊くということは、「では、大人の側は何をすべきか」という問いと表裏一体だ。宮古編の最後に、合州国からやってきたふたりの大人にご登場戴こう。金子三四郎さんとやよいさんご夫妻だ。

三四郎さんは日本の大学を卒業後「高校時に思いを馳せせていた」アメリカに渡り、永住。ジャルパックと日本航空現地法人で働き、2010年に退職を迎えた。やよいさんは、日本航空の教官だった父の転勤のため、高校時代にワシントン州に転居。一旦帰国後、1977(昭和52)年に再渡米し、NASA契約民間企業、IBM、TWA、JALで働き、結婚。子育てをしながら大学に戻り、1994(平成6)年に公認会計士の資格を取った。現在は日本の上場会社の合州国子会社を顧客とする会計事務所で、経営コンサルタント・監査責任者パートナーとして働いている。

2012年の7月、知人を介して、ボランティアとして「TOMODACHI~」で子どもたち相手のスピーカーをしてくれないかという打診があった。ここまで何度も高校生たちが印象深い体験として語っている、合州国で働くさまざまな職種の日本人が、仕事の経験を語るプログラムだ。金子夫妻は快諾し、8月1日の夜、被災地からやって来た高校生たちと対面した。南相馬編(連載第13回 http://president.jp/articles/-/7995)に登場したキャビンアテンダント志望の渡邊冴さん(原町高校2年)が「印象に残っている人」として挙げていたのは、金子夫妻のことだ。

やよいさんは語る。

「プログラムの最後の“卒業式”にも出席しましたが、その際、高校生たちの成長に驚きました。到着当初は修学旅行のような雰囲気であった子どもたちが、卒業式ではしっかりと、地元に戻ってからの復興支援や、さまざまな活動計画を語ってくれた。このプログラムがどれほど彼ら彼女らに意味のあったことかを感じました」

11月、金子夫妻は日本を訪れ、被災地を回り、宮古で高校生たちに再会した。こちらが高校生たちにインタビューしている間、夫妻は隅に座り、高校生たちの語る将来の話を笑顔で頷きながら聴いている。取材後の昼食時には、夫妻のほうから高校生たちに話しかけ、高校生たちの中にまだほんの少し残っていた緊張を優しくほぐしていた。

「わたしたち大人が、長くフォローとサポートを怠ってはいけないと実感しました。彼らの“勢い”を絶やさないように継続させる責任が、わたしたちにはあると感じました」

次回は、宮城県多賀城市に3人の高校生を訪ねる。

(明日に続く)

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