この4月、被災地の人口が1人増えた。岩手県陸前高田市広田町。太平洋に突き出した半島の漁村に、大学を出たばかりの若者が住民票を移し、暮らし始めた。今も被災地に「通い続ける」人は少なからずいる。だが、この若者――三井俊介さんは「住む」ことにした。インタビューの第1回目は、三井さんが暮らし始めた広田という町の魅力、そして住むと決めた三井さんの思いを聞く。
1988年、茨城県つくば市生まれ。高校時代はサッカー部所属。国際協力に興味を持ち、法政大学法学部国際政治学科入学。2008年、「WorldFut」設立。2009年4月から休学し、カナダとブラジルに留学。2010年2月に帰国、社会起業大学にダブルスクールで入学。2010年夏、カンボジア、中国、ベトナムを旅する。2011年4月、震災ボランティアで広田町に入り、通い続ける。2012年、法政大学を卒業。4月に広田町に移住。
ぼくが暮らしている広田町の話
――陸前高田市広田町ってどんなところですか?
三井 岩手県と宮城県の県境にあるのが陸前高田市です。南は気仙沼、北は大船渡に挟まれています。人口は震災前が24,000人。現在が20,000人を切って19,000人くらい。その中でも広田町はいちばん太平洋側の半島の町です。
広田町は約3,600人くらいが住んでいて、18歳以下が10%。65歳以上が34%。ぼくと同年代にはほとんど会ったことがありません(笑)。限界集落認定が、65歳以上が50%以上だと思うんですけど、単純計算で3年以内に限界集落認定されてしまうような町です。
陸前高田市は基本的には観光で成り立っていた街ですけど、広田は漁村。漁師専業以外の人も「半農半漁」で、農業をやりながら、陸から見えるくらいの海に出て漁をしながら生活をしている人が多いです。二次産業はなくて、ほとんどが一次産業です。
広田には「けせら」――いろんなものをくれちゃう文化があります。「けせら」って「持っていけ」っていう意味なんですけど、どこ行っても「キャベツけせら」とか、いろんなものを持ってけって言われます。さっき食べたツブ貝とかドンコももらっちゃいました(笑)。ほとんど毎日、会えば何かをもらえます。
人はすごく暖かいんです。ただ、50代、60代の人には隣近所の付き合いがあるんですけど、30代、40代のお母さん層になるとそうでもない。旦那さんが広田出身で、そこに移住してきた奥さんが多いんですよ。近所付き合いの一部しか知らない奥さん方が増えていて、地域のコミュニティが崩れつつありそうだな、というのは感じてます。
あと、漁師町なんで、自分勝手にやっちゃうところがあります。いい意味でも、悪い意味でも、自分中心。ガキ大将的な考え方。そこは自分としてもちょっと苦しい部分でもあるんですが。
自分たちで独立して動き出す気質があるんで、陸前高田市のほかの地域の人と比べると、漁協や農協から独立して自分たちで団体を立ち上げてやっていく動きも強いですね。高田の人は、波風立てずに過ごしていくところがあるんですけれど、広田の人は「俺は俺で責任取るから、やるよ」という気質。
「高田は高田、広田は広田」っていう感覚は、高田の人も、広田の人も強いですね。広田の人も、「高田に行ってもあんまし話が合わねえ」って言うんですよ。あんまり出て行こうとしませんもんね。「話、合わないから、俺らは広田でやってく」みたいな感覚はすごく強いなと肌で感じます。
――今日はぐるっと広田を回らせてもらったんですが、自然が豊かですね。
三井 広田は、海の幸も山の幸も10分も歩けば両手いっぱいになるくらいあります。商材になるものも、ほんとうはいっぱいある。宝が眠ってる。山菜もいっぱいありますし。
以前、広田のお母さんたち3~4人と、海岸線を2時間くらい歩いたんです。植物から海産物まで、名前がわかるものだけで、30~40種類くらい見つかりました。それくらい、いろんなものがあります。
――豊かだなあ。
三井 豊かです。広田は「東北の湘南」とも呼ばれていて、気候が東北のほかの地域に比べてかなり温暖です。海水浴場もありま……ありましたし、山にも往復で1時間くらいのハイキングコースがあります。これもいい観光資源になるなあと自分は思っているんですけれど。今は使われていないですけれど、島の海辺をぐるっと歩ける2時間くらいの遊歩道もあります。海で泳げて、海沿いを歩けて、山の中も歩ける。
あと「黄金のふるさと」とも呼ばれてるんです。陸前高田市の中でいちばん東に位置してますから、太陽が昇ったときに、黄金色に輝く海辺がいちばん綺麗に見える場所なんです。