老教皇を号泣させた戦略ストーリー
天正遣欧少年使節団は1582年に日本を出発し、2年間かけてヨーロッパに到着、その後1年間もあちこちを訪問して、85年についにバチカンでグレゴリオ教皇と謁見する。ここが本書のクライマックスシーンだ。
少年たちは「ローマにては未曾有の最大の行事のひとつであると確信できるほど豪華壮麗をきわめた儀式」で迎えられた。行列が喚起の声のなか、テヴェレ側をわたり、聖天使城の前の華麗な端を渡ろうとするとき、何百発もの祝砲が鳴り響く。サン・ピエトロ大聖堂の前の道を抜けて大広場に出るとそこはローマの人々がもう立錐の余地もないほどにこの東方の使者たちを一目見んとむらがっていた。そしていよいよ教皇に謁見する。ローマのイエズス会所属の神父、ガスパール・ゴンサルヴェスが、教皇の前で「地球の周りをすべてまわらなければいけないほど遠く離れた国、日本からはるばるやってきた高貴な使節が、いま教皇のもとにひざまずきいている。これはわれわれが失ったものがいかに多くありましょうとも、それを補ってあまりあるものであります。かくて苦しみと涙は悦びに変わるのであります」といって、教皇を称賛した。84歳の教皇グレゴリウスは、歓喜のあまり「滝のように涙を流した」という。教皇にとって、苦難続きの人生の晩年で迎えた最良の瞬間だった。
この辺の天正遣欧少年使節を迎えたローマやヨーロッパの大興奮は、日本史の教科書的な知識しかなかった僕にとっては大きな驚きだった。宗教改革で追い詰められ、多くの信者の国を失ったローマ教会にとって、少年使節は反転巻き返しのグローバル化の成功の象徴であり、日本でのそれをはるかに凌駕するインパクトをもっていたのである。
日本からの少年たちは、宗教改革に対抗するカトリック教会の勝利を証言する「東方からの3人の王」として燦然と輝く存在だった(気の毒なことに、「東方三博士」のイメージを維持するため、中浦ジュリアンだけは体調不良を理由に謁見式に出してもらえなかったという)。カトリック教会こそ依然としてグローバル世界の中心であるということをヨーロッパ世界に知らしめる最大級の広告塔。それがヴァリニャーノの戦略ストーリーにおける天正遣欧少年使節の意義だった。