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経営も、不況も、要するに人事である

はるばる日本からきた少年使節団はローマで大歓待を受け、謁見したグレゴリオ教皇は、彼らを見て感動のあまり号泣した――このドラマの脚本、演出、監督をすべて手掛けたのがたぐいまれなるグローバル経営者、ヴァリニャーノだった。しかし彼も万能ではなかった。人事で大失敗を犯したのだ。日本を自分たち西欧のやりかた合わせるのでなく、自分たちを日本に合わせていくという日本文化尊重の布教へとヴァリニャーノは戦略転換を決断し、垂直型布教の戦略をとっていた布教長のカブラルを更迭した。ここまではよかった。問題は後任にコエリョという人物を置いたことだ。

一橋大学大学院
国際企業戦略研究科教授

楠木 建

1964年東京生まれ。1992年一橋大学大学院商学研究科博士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年より現職。専攻は競争戦略とイノベーション。日本語の著書に、『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)、『知識とイノベーション』(共著、東洋経済新報社)、監訳書に『イノベーション5つの原則』(カーティス・R・カールソン他著、ダイヤモンド社) などがある。©Takaharu Shibuya

ヴァリニャーノの心中にあった次の「日本支社長」は、コエリョではなくオルガンティーノだった。オルガンティーノは自分と同じような考え方を持っており、リーダーとしての胆力にも優れていた。しかし、オルガンティーノには財務スキルがなかった。もうひとつの懸念事項として、彼はヴァリニャーノと同じイタリア人だった。「公平な人事」のために、同国人を贔屓したと思われたくないという配慮がはたらいた。そこでヴァリニャーノはポルトガル人のコエリョを後任に指名する。結果からすれば、これが大失敗だった。

オルガンティーノという宣教師は、信長に最も信頼されていて、彼の立場も思想もよく理解していた。信長が超冷静な近代人であり、ヨーロッパ人以上に合理主義の無神論者であるということを見抜いていたオルガンティーノは、信長が改宗することなどはなから期待しておらず、一定の距離を慎重に保ちながら信長にうまく食い込んでいた。それに比べてコエリョという人は考えが浅薄で、ものごとを表面的にしか見ない。

信長の死後、最高権力者となった秀吉との謁見で、コエリョは致命的なミスをおかした。大タヌキの秀吉は、まず宣教師たちの活動を賞賛して持ち上げる。日本の過半数をキリシタンにするつもりだとまで言う。おだてられてすっかり気をよくしたコエリョは、通訳のルイス・フロイスを通じて、布教戦略の根幹にかかわる大胆発言をしてしまう。秀吉が九州に進撃することを願っているとしたうえで、それが実現したときには九州の全キリシタン大名を秀吉側につかせるように尽力すると提案する。

秀吉からしてみれば、これは宣教師がキリシタン大名を通じて政治に介入するという話以外の何物でもない。ときの最高指導者だった秀吉にとって、キリスト教と宣教師について大きな疑惑を与える発言だった。ところが、調子にのったフロイスとコエリョは秀吉の疑念にまったく気づかず、「将来、殿下が中国に攻め入る際には、ポルトガル人から2艘の大型船を世話しましょう」などと政治協力の話をエスカレートさせる。

傍らで見ていたオルガンティーノは、2人の鈍感さに危機を感じ、フロイスとの通訳の交代をと申し出た。オルガンティーノは、宣教師が戦争の問題に介入することを秀吉が最も嫌悪するということを知っていた。しかしコエリョは日本人に人気のあるオルガンティーノに嫉妬しており、彼の申し出を無視してそのままフロイスに通訳を続けさせた。これは決定的な失敗だった。

この報告を受けたアジア本社のCEO、ヴァリニャーノは激怒した。九州征伐にカトリックの神父が役立つということを強調すればするほど、秀吉の猜疑心は増す。秀吉は非常に狡猾だったので、表面上は満足したように見せかけてコエリョとの会談を終えている。コエリョとフロイスは、単純に大成功を信じて大喜びだった。しかし、おそらくこのときに、秀吉はキリスト教弾圧の方針を固めたのである。

人事の失敗が遠因となって、秀吉はキリスト教の排除を意思決定する。この後は、教科書的な知識しかない僕でも知っている悲劇が続く。少年遣欧使節が長年の苦労を乗り越えて8年ぶりに戻ってきたときには、すでに日本の政治情勢は一変していた。秀吉によって日本に統一的な国家体制が構築されつつあり、伴天連追放令が出されていた。

しばらくは秀吉と4人の青年宣教師(すでに彼らは少年ではなかった)の腹の探り合いが続くが、結局彼らは仕官を拒否し、キリスト教の司祭になることを決意する。その結果、全員が悲惨な結末を迎える。マンショは病死。マルティーノは国外追放されてマカオで死亡。潜伏していたジュリアンは見つかって死刑。ミゲルは棄教。本書の後半は、前半から一転、ヨーロッパにおける栄光の旅から戻った4人の悲劇的なその後の人生が描かれている。

僕にとって、最高の読書というのは、登場人物や著者と対話しながら読むうちに、自分がその世界に入りこんで同じ時間と空間を生きているような感覚になるときだ。これを私的専門用語で「トリップ」と言っている。トリップできる読書だと、ふと気づくと何時間もたっていることがある。これが至福の読書だ。

『クアトロ・ラガッツィ』の前半(上巻から下巻途中まで)は、トリップに次ぐトリップ、もう飛びっぱなしだった。後半も十分に面白いのだが、トリップ感という点ではそれほどでもなかった。なぜかというと、著者の若桑みどりさんの日本の歴史についての基本的な考え方が僕には違和感があったからだ。著者は次のように言う。

「日本が明治時代に外圧によって国民国家をつくりあげはしたものの、みずから西欧的な意味における近代社会をつくりあげることができなかったのは、なによりもまず、西洋が近世に入った時期つまりまさに戦国時代の末期に、日本が世界に向けてドアを閉ざし、やがては近代を準備するであろう思想や政治や文化をシャットアウトしてしまったからだ。ルネサンス人も古代アテネ人から学ばなければ個人の自由や平等や尊厳については考えることができなかった。知識だけが人間を進歩させ、解放するのだから、知識の窓を閉ざしてしまえば、その成長は遅れる。その上、これも何人かの歴史家が指摘していることだが、統一政権をつくった徳川一門は、古く封建的な支配の構造と、それを追認する古い儒教思想をもってその体制を堅固なものにした。そして、それを守るために鎖国した。これによって、日本は世界史から締め出され、近代化に決定的な遅れをとった。近代化がなんでもかんでもいいというわけではない。しかし、憲法、議会、個人の権利、法と正義、身分制度の廃止、どれをとってみたって、少なくとも、庶民には、近代のほうがいいにきまっている。私のように、150年以上血統が保証されているとはいえ、北九州の一農民の子孫である人間にはなおさらである」

著者は、西洋の美術史をずっと研究してきた人であり、若いころからイタリアに留学していた。それだけに、「西洋こそがスタンダード」という強い思いが思考の基礎にあるのは当然の成り行きだ。個人の尊厳と思想の自由は西洋文明が戦い取ったもので、宣教師の来日は日本が進んだ文明を受容する絶好のチャンスだった。にもかかわらず、西洋人を追放して、鎖国に転じてしまったために日本は決定的に遅れをとったというのが著者の理解だ。

僕にも若いころにイタリアのミラノにあるビジネススクールで教えていた時期があった。ヨーロッパ世界に対する僕の理解は、それを専門として優れた業績をあげた著者に比べれば、はるかに浅薄で断片的なのは言うまでもない。しかし、ヨーロッパに触れ、その歴史について知れば知るほど、「ベリーベストの選択」ではないにしろ、鎖国にはさまざまにポジティブな面があり、人工的に「安定」した江戸時代が基礎となって、明治以降の日本の近代化(これは極東の小国としてはこれ以上望めないほどの成功だったと思う)が初めて可能になったという考えを持つようになった。