賢慮の人
僕が最初にライフネット生命の出口治明社長と知り合ったのは、友人であるあすかアセットマネジメントの谷家衛さんを通じてのことだった。谷家さんはベンチャーキャピタリストで、出口さんに起業をすすめた張本人。やはり僕と同世代の友人であるマネックス証券の松本大さんと谷家さんは長年の親友関係にある。2人とも若くして金融業界で成功し、それぞれに独立して会社を興した。僕は投資もトレーディングも素人だが、2人ともおそろしく頭がいいということだけはいやというほどわかる。
出口さんは子会社に出向するにあたり、「もう生命保険の世界に戻ることはないだろう」と思って、生保マンの「遺書」として『生命保険入門』という本を岩波書店から出していた。その中に「理想の生命保険会社」という章があった。生命保険の仕事を終えるに当たり、出口さんが「本来の生命保険会社はこうあるべきだ」という思いのたけを綴った章だ。
谷家さんが出口さんに新しい保険会社の構想を持ちかけたのは、出口さんが日本生命の子会社である大星ビル管理に出向し、取締役を務めているときのことだった。谷家さんの申し出を受けて、出口さんは迷わず「いいですよ」と答え、その場で話が決まったという。出口さんにしてみれば、すでに構想はできていた。かつて書いた「理想の生命保険会社」、その通りの会社を創るチャンスが到来した。
谷家さんが親友の松本さんに声をかけ、マネックスとあすかアセットマネジメントのグループ会社であるあすかDJBとの折半出資で、新しい生命保険会社の準備会社が設立された。2006年のことだった。
僕と出口さんとの出会いに話を戻す。谷家さんに誘われて、僕はある若手の国会議員との朝食会に出かけて行った。そこで初めて出口さんにお会いしたのである。最初お目にかかったときは、失礼ながら「定年退職後の人生をマイペースで謳歌しているような地味なおじちゃま」という印象だった。ところが口をひらけばことごとく切れ味鋭い言葉の連続。昨今の政治は何が問題なのか、淡々と論理で本質に切り込んでいくお話を伺って、世の中にこんな人がいるのか!とほれぼれした。
僕が尊敬する経営学の先達、野中郁次郎さんが言う「賢慮のリーダー」とはまさにこういう人のことを意味していると直感した。「倫理の思慮分別をもって、その都度の文脈で最適な判断・行為ができる実践的知恵(高質の暗黙知)物事の善悪の判断基準の軸を持って実践的知恵を駆使するリーダー」、これが野中さんの賢慮のリーダーの定義だ。賢慮を備えたリーダーは、「自らの哲学、歴史観、審美眼を総合したビジョンを志向しつつ、ダイナミックな状況の本質を察知して、その都度の文脈に最善の判断・行動を起こす。断片的な情報や知識というよりは、状況思考・行動ができる知恵を備えて」いなくてはならないと、野中さんは言う。そのまま出口さんという人物についての記述になっている。
出口さんは異様な読書家でもあり、その教養の奥深さたるや、畏怖をおぼえるほどである。歴史や人間、社会に対する思索のレベルがまことに深い。例えば、出口さんは人間の長所と短所についてこう言っている。
「長所と短所はまったく同じもの(その人の個性)。長所を伸ばして、短所を直すという考え方は、そもそもありえないと思っています。無邪気にそう考えている人は、トレードオフというものが理解できないのです。人はすべて、三角形や四角形であり、長所を伸ばして短所を直そうとすれば、三角形や四角形の中に収まる小さな円(覇気を失いひたすら円満を心がける面積の小さな人間)になってしまうだけではありませんか」
出口さんの最上の愛読書はM・ユルスナールの小説『ハドリアヌス帝の回想』(言わずと知れた名著!これも是非お読みください)であるという。ハドリアヌスは「人間として最上の美徳は素直であることだ」と言う。実績やや経歴や能力よりも素直さ。これが出口さんも人間哲学の支柱にある。
谷家さんは、起業のパートナーとして、ビジネススクールでの勉強を終えたばかりの岩瀬大輔さんを出口さんに紹介した。「若くて生命保険の経験がない人を探してください」というのが出口さんの希望だった。業界に詳しい気心の知れた人間を自分の人脈の中でピックアップするのと比べれば、大きなリスクではある。しかし、出口さんは岩瀬さんの「素直さ」という長所を見抜き、生保のことを何も知らなかった若い岩瀬さんをパートナーとして選んだ。それについては「ただの一瞬も後悔したことがない」と言う。
深い洞察からくる信念に根差した哲学があれば思考と行動がぶれない。だから意思決定も早くなる。細かい市場動向の調査や資本調達のシミュレーションなどせずとも、本質的な基準さえあれば、意思決定は拍子抜けするほど素早くできてしまうものだ。結論を出さずに「ちょっと持ち帰らせてください」ということになってしまう理由は、情報不足ではない。往々にして信念や思想の欠如が意思決定を遅らせるのだと僕は思う。未来のことはいくら情報を集めてもしょせん正確には分からない。大きなリスクを伴う難しい意思決定をスパッと下せるかどうかは、その人の信念と賢慮にかかっている。
賢慮としか言いようがない出口さんの持ち味は、この本の1ページ目からにじみでている。「人間は自分の持ち場で、一所懸命に生きることが一番自然な形だと思うのです」。文面だけ読むと、「その通り。それが何か?」という当たり前の話に聞こえるかもしれない。しかし出口さんと話をしてみて、この一行の深さを知るに至った。
僕との対談で、出口さんはこんなことを言われた。「人間は、1人ひとりが世界経営に参画しているのです。人間は世界の構成要素であり、それが積み上がって世界が出来ている。だから世界経営に参画するということは人間として壮大なことであり、それは自分の持ち場で一生懸命に生きることと同意なのです」。僕は101歳になる祖母と一緒に住んでいて、彼女はいまだに毎朝家の前を掃いて掃除をするのを日課にしている。この話をすると、「まさにそれが世界経営に参画するということです!」と出口さんは言った。
「元気で明るく楽しい職場」、これが日本生命時代からの出口さんの心がけだという。まるで小学校の黒板にある標語である。しかし、この構えは「正直に経営し、わかりやすく安くて便利な生命保険商品・サービスを提供する」というライフネットのマニフェストと深いところでつながっている。「自分たちのやっている仕事が、世のため、人のために役立っているという確信が芽生えた時、本当に心の底から明るく元気に楽しく働ける」と出口さんは言う。ライフネットのマニフェストは顧客だけでなく社員にも向いている。
どんなに当たり前に聞こえることにも、出口さんがそれをひとたび口にするとき、その言葉は一段も二段も深いところから考えられ、積み上げたられた信念の裏づけがある。その信念が、日常生活からはじまって、経営者としての言動、戦略の構想まで、出口さんのすべての思考と行動の基準になっている。まさに賢慮の経営である。