カトリック宣教師たちの究極のグローバル化体験

前回と前々回の『直球勝負の会社』(>>記事はこちら)の著者、出口治明さんに薦められて本書を読んだ。確かにとんでもなく面白い。16世紀の日本に来たヨーロッパのキリスト教宣教師と日本からヨーロッパに向けて旅たった日本人宣教師たちの話である。タイトルの「クアトロ・ラガッツィ」とは「4人の少年」のこと。原マルティーノ、中浦ジュリアン、伊東マンショ、千々石ミゲル。日本史の授業で習う1582年の天正遣欧少年使節団だ。意味も文脈も分からずに、日本史のテストのために年号と名前を暗記した人も多いだろう。

一橋大学大学院
国際企業戦略研究科教授

楠木 建
1964年東京生まれ。1992年一橋大学大学院商学研究科博士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年より現職。専攻は競争戦略とイノベーション。日本語の著書に、『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)、『知識とイノベーション』(共著、東洋経済新報社)、監訳書に『イノベーション5つの原則』(カーティス・R・カールソン他著、ダイヤモンド社) などがある。©Takaharu Shibuya

歴史ノンフィクションである『クアトロ・ラガッツィ』は、時間的にも、空間的にも一見無関係に見える。しかし本書は日本の企業経営にとって重要な洞察を与えている。企業経営のグローバル化を考えるうえで、壮大にして格好のケーススタディとして読むことができるからだ。本書が描いている16世紀の日本に来たカトリック宣教師たちの経験は、グローバル化への挑戦の究極の事例であるといえる。この事例研究から今日の日本企業のグローバル化とその経営について、彼らの成功と失敗の体験から驚くほど多くの示唆が引き出せる。

ビジネスは絵画や小説のような純粋な創作活動とは異なる。普通の人に対して普通の人が普通にやっているのが商売だ。天才の創造性やウルトラC級の飛び道具は必要ない。大切なことほど「言われてみれば当たり前」。出口さんが『直球勝負の会社』で強調していたことだが、虚心坦懐に向き合えば、ほとんどすべての仕事はごく当たり前の論理に基づいている。

例えば、「相手の立場に立ってものごとを考える」。どんなビジネスにとっても必須の構えであることは言うまでもない。商売はまず相手を儲けさせなければ話にならない。相手を儲けさせてはじめて自分が儲かる。ところが、これが実に難しい。手前勝手な供給側の都合でアタマがいっぱいになる。相手にとってどうでもいいことにのめり込む。前々回話した「プロクルステスの寝台」だ。

「グローバル化!」がかけ声倒れに終わっている会社の事例を眺めると、あちらこちらで「プロクルステスの寝台」が顔を出しているのに気づく。グローバル化は相手のある話だ。グローバル化には常にこちらが出ていく先の国や市場や人々がいる。自分たちだけで完結できる話ではない。しかし、「日本はグローバル化しなければならない」とか「いま日本企業に必要なのはグローバル経営である」となると、なぜか主語の「日本」とか「日本企業」の内情ばかりに目が向いてしまう。グローバル化してどこの市場で誰を相手にするのか、どういう人たちと一緒に仕事をしていくのか、相手の目線での注意が欠落しがちだ。

考えてみれば、鎖国体制の崩壊と開国以来、明治維新を経て現在に至るまで、日本は「グローバル化される」側にあった。グローバル化の対象としての経験は豊富に持っている。グローバル化される側としての日本は、もはやベテランの域に達しているといってよい。

日本が言語的にも、文化的にも、地理的にも、かなり独自性の強い国であるということが、グローバル化を困難にしていることは確かだ。しかし、それは同時に日本へとグローバル化してきた海外の企業の側にも大きな非連続性があったということを意味している。日本に入ってきた外国企業の成功や失敗の歴史に目を向けてみれば、多くの示唆と教訓を引き出せるはずだ。例えば日本IBMに代表される日本に根をおろして商売をしている外資系企業は、かつてどのように非連続性をのりこえたのか。それよりもはるかに数が多い日本へのグローバル化に失敗した企業は、どこでどのように「プロクルステスの寝台」の陥穽にはまったのか。こうしたことを考えてみると、グローバル化しようとするときの「相手の立場」をより深く理解できるはずだ。なにぶん「相手」がわれわれ自身だったのだから。