垂直型伝道か、水平型伝道か
日本にのりこんできたイエズス会がとった布教戦略は「垂直型伝道」だった。宣教師が町へおもむき大衆に辻説法をしてボトムアップで信者を増やしていく(水平型伝道)のではなく、イエズス会はまず社会の上層部に働きかけた。指導者層を説得して改宗させたのちに、彼らの影響力をテコにして庶民へと信者を増やしていく。これが垂直型伝道の戦略である。ヨーロッパでは伝統的にこの垂直型伝道が効果的だった。なぜならこの時代、絶対君主制というものが確立し、君主を中心にしたトップダウンの社会制度が機能していたからだ。垂直型伝道はイエズス会の基本戦略として長いこと採用されていた。
しかし日本ではまるで事情が違った。群雄割拠の戦国時代にあって、誰が最高権力者なのか判然としない。垂直型伝道をやろうとすれば、何人もの権力者にいちいち話をつけなくてはいけない。イエズス会がグローバル化の過程で直面した非連続性のひとつだった。
日本における垂直型布教の推進者は、布教長のカブラルだった。彼は、自分が日本人の心や習慣に合わせるのではなく、自分の心や習慣に日本人を合わせようとした。垂直型布教の性格からして、これは自然な成り行きだった。しかし、これが「プロクルステスの寝台」になり、布教は踊り場を迎えた。「これはキリスト教が全世界の異なった文明とまじわるときに犯した大きなあやまりのひとつ」と、著者の若桑みどりさんは指摘している。
この限界を打破したのが、イエズス会の東インド管区巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。巡察師というのは全世界における布教の様子を定期的に視察して歩く監査官のような仕事である。この人が極めて有能なグローバル化のリーダーだった。1579年に日本に来たヴァリニャーノは、すぐに「日本文化と西洋文化の非常な違い」に気づき、「相互の理解がほとんど不可能」であることを悟った。そのうえでこの異なる文化を融合していくためには「われわれのほうがあらゆる点で彼らに順応しなければならない」と考え、従来の戦略を大きく転換するという決断を行った。彼こそが遣欧少年使節の生みの親であり、イエズス会の「アジア支社長」としてグローバル化に絶大な貢献をした人物だった。
ローマのイエズス会古文書館にはヴァリニャーノの書いた『日本諸事要録』という報告書があり、これが16世紀から17世紀の西欧人の日本観の基本になったという。諸事要録からは、日本と日本人についての深い理解と鋭い洞察が読み取れる。たとえばヴァリニャーノは「日本人の長所について」とこんなふうに書いている(引用は要約したもの)。
きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者も驚くべき礼儀をもって上品に育成され、あたかも宮廷人のようである
人びとは有能であり、すぐれた理解力をもち、子供たちはヨーロッパの子供よりもはるかに容易に、短期間にわれらのことばで読み書きを覚える
いずれもみなすぐれた理性の持ち主で、高尚に育てられ仕事に熟練している
一般的には庶民も貴族もきわめて貧困だが、貧困は恥とは考えられていない
家屋ははなはだ清潔でゆとりがあり、技術は精巧である
世界でもっとも面目と名誉を重んずる国民である
はなはだしく武器を重んじる傾向があり、階級を問わず、12歳か14歳になると、みな短刀と太刀をもって歩く
一度戦うとなると相手を殺すか双方とも死にいたるまで徹底的に戦う
きわめて忍耐強く、飢餓や寒気や、人間としてのあらゆる苦しみや不自由を耐え忍ぶ
身分の高い人間も、子供のときからこれらの苦しみを耐えるように慣らされている
きわめて強大な領主が自国から追放され、窮乏と貧困を耐え忍びながら平静な態度で安らかに暮らしているのをたびたび見かける。この忍耐力は環境が常に変化することに起因している
感情をあらわさない。柔和で忍耐づよいという点では、日本人は他国人に秀でていることを認めざるを得ない
人と接するときは、いつも明るい表情をし、自分の苦労についてはひとこともふれないか、あるいは少しも気にしていないかのような態度で一笑に付してしまう
一致と平穏がよく保たれており、平手や拳で殴りあって争うということがない
服装、食事、その他すべてにおいて、きわめて清潔であり、美しく、調和が保たれている
いまの日本人が読んでも、おそらくこの通りであったのだろうと思える指摘だ。次に彼の見た日本人の短所について。ヴァリニャーノは「日本人はすぐれた天性と風習をもち、世界じゅうのもっとも高尚で思慮ありよく教育された国民に匹敵する。貧困、戦乱、邪悪な宗教によっても節度を超えた憎悪や貪欲を持たない。しかし悪い面ではこれ以下がないくらいで、善悪の矛盾が極端である」と言っている。
第一の悪は色欲にふけること(最悪の罪は男色)
第二の悪は主君に対してほとんど忠誠心がないこと
第三の悪は欺瞞や嘘を平気で言うこと
第四の悪は軽々しく人を殺すこと
第五の悪は酒に溺れること
列挙した日本の長所と短所は、あくまでも宣教師としてのヴァリニャーノの視点で見たものだから、(当時の)日本人としては矛盾でもなんでもない、ごく自然な話だったかもしれない。しかし、ヴァリニャーノにははなはだしい矛盾に見えた。この人の偉いところは、この矛盾にこそ日本人の本質があるととらえ、西洋の基準ではどうにもならない相手だと早々に悟ったことにある。
ヴァリニャーノは宗教家であり、しかも「文明が進んだ」西洋から日本に来ている。いまのビジネスのグローバル化と比べても、他国を理解する際に、さらに強い先入観や偏見をもっていても不思議ではない。しかし、彼の発想と思考には、日本人は理解不能な野蛮で未開な人たちと決めつけたり、西欧の文明を教えて日本人を躾けてやろうという「上から目線」がまったくない。ヴァリニャーノのコンセプトは「文化の融合」だった。自分たちのほうからこの異質であるが高度な文明を理解し、歩み寄っていかなくては文化の融合はおきず、本当の意味での布教もすすまないと考えた。
いかにこの人が、当時のキリスト教宣教師にありがちだった「プロクルステスの寝台」とは無縁だったかは、「(日本語は)知られているかぎりもっとも優秀なものであり、きわめて優雅であり、わたしたちのラテン語よりも語彙が豊富で思想をよく表現する」「(このようなことばを使い分けるのだから)これにより日本人の天稟の才能と理解力がいかに大いなるものであるかがわかる」、という彼の一連のコメントにもよく表れている。この時代に「“高慢な西洋人”がこのような他者認識にいたるのはまさに奇蹟」というのが、著者の評価だ。
キリスト教のグローバル化をおしすすめたイエズス会は、ヨーロッパ政治権力の圏外に布教していくなかではじめて西洋と同等の高さをもつ異教の文明に接触した。ヴァリニャーノは日本の文明を異質ゆえに見下すことなく、異質だが尊敬に値すると素直に認めて、布教戦略の大転換を決断した。そのことにより、日本は極東というヨーロッパからもっとも遠い地にありながら(一時的ではあったが)イエズス会のグローバル化戦略が最も戦略した国になるのである。