数十万人の餓死者を出した享保の大飢饉の原因は梅雨とウンカ

いつの時代も、庶民は農業を脅かす害虫に苦しめられてきた。例えば1732(享保17)年に起きた「享保の大飢饉」や、1833(天保4)年の「天保の大飢饉」の元凶は、主に害虫だとされている。

享保の大飢饉の場合、その年の梅雨が長引き、冷夏になったのとウンカが大発生したことが発端である。ウンカとはセミを小さくしたような体長5mmほどの虫だ。稲の茎や葉に取り付き、水分を摂取し、稲を枯らしてしまう。

戦後、農薬を使った駆除の普及により、害虫被害は抑えられてはきている。だが、いまだにウンカの被害(坪枯れ)は珍しくはないという。

享保の大飢饉では、数十万人の餓死者を出したとも伝えられている。天保の大飢饉の際には、大騒動にも発展した。「大塩平八郎の乱」などが勃発し、コメの不作からくる財政難とも重なって幕府権力が大きく揺らぐ要因ともなった。食糧の供給をいかに安定させるか。時の権力にとって、虫との対峙は人間同士の争い以上に、一大事であった。

筆者は以前、上野の寛永寺を訪れた際、偶然、境内に江戸時代に立てられた虫塚を見つけたことがある。赤みを帯びた丸い安山岩が、本堂前の茂みの中に置かれていた。塚の上部に「蟲塚」とあり、正面にはびっしりと漢詩が刻まれている。漢詩は江戸時代中期の儒学者、葛西因是かさいいんぜの作である。

寛永寺の虫塚
撮影=鵜飼秀徳
寛永寺の虫塚

碑文によれば、この虫塚は伊勢(現在の三重県)長島藩主で、増山雪斎(正賢)にちなんだものだ。雪斎は藩主でありながら書画に優れ、多くの花鳥画を手がけた人物。なかでも昆虫の写生図である『虫豸帖ちゅうちじょう』には、トンボやバッタの透き通った羽の質感などが緻密に描かれている。今にも画帖から飛び出してきそうなリアルさである。

増山雪斎の『虫豸帖』
撮影=鵜飼秀徳
増山雪斎の『虫豸帖』

雪斎は生前、「虫はわが友である。(作画のために死んでしまった虫のために虫塚を建立して)いつか適当な地に置いて供養したい」と遺していた。死の2年後の1821(文政4)年、知人らによって増山家の菩提寺、寛永寺塔頭の勧善院にこの虫塚が立てられた。勧善院は昭和初期に廃寺になったが、虫塚は寛永寺のよって引き取られた。ちなみに、『虫豸帖』は、寛永寺の旧境内地である東京国立博物館に収蔵されている。

なお、寛永寺の虫塚の近くには、茶筅ちゃせんを供養する「茶筅塚」もある。茶筅は、茶道にとって欠かせないものだが、摩耗して使えなくなる。茶筅塚は、茶筅そのものの供養を目的にする他、「客」への感謝、先達の茶人にたいする供養など、さまざまな意味が込められている。虫塚とともに見てもらいたい。

永寺の茶筅塚
撮影=鵜飼秀徳
永寺の茶筅塚