しかし、くどいようだが衆院選で争われるのは「政権のありよう」だ。無所属候補であろうと、政権与党の自民党にどういう立場で対峙するのかを明らかにしないわけにはいかない。実際、8日の乙武氏の出馬表明会見では「与党候補として出馬したつもりなのか、(野党候補として)自民党政権を打破するつもりで立候補したのか」との質問が飛んだ。

乙武氏は「与党である、野党であるということに対するこだわりは、そこまで強く持っていない」「与野党の枠組みではなく、私にしか出せない論点で課題意識を共有いただき、法制化につなげる活動をしたい」と述べた。

小選挙区制が有権者に求めているもの

だが、こういう「政策実現のためなら与野党どちらでもいい」という政治スタンスは、平成の時代とともに古びてしまったのではないだろうか。

政権を争う二つの政治勢力は、本来「目指す社会像」を争っているはずだ。それぞれの目指す社会像に沿って、個別政策の内容や、政策実現の優先順位にも違いが生じる。例えば同じ民法改正でも、現在の自民党政権の場合「離婚後の共同親権」導入の動きは急ピッチで進むが、「選択的夫婦別姓」の導入は、四半世紀をかけても進まない。

野党第1党の立憲民主党が政権を取れば、おそらく逆になるだろう。「目指す社会像」、この場合「家族のあり方」に関する姿勢が、両者で大きく異なるからだ。

だから「自分自身が目指す社会像」が明確であれば、候補者は「与野党の2大政治勢力のどちら側に立つのか」を迷うことはないし、与野党間の政党移動など、本来起こり得ないはずだ。たとえ完全に一致していなくても「どちらの政治勢力のほうがより自分に近いか」を考え、選び取ることは可能である。

候補者だけではない。有権者も「自らの目指す社会像」を2大政治勢力のそれと照らし合わせながら、選挙での投票に臨まなければならない。小選挙区制が国民に求めているのはそういうことだ。

「無党派」で「誰が首相にふさわしいか」を選べるのか

補選に勝利して衆院議員になれば、本会議で首相指名選挙に臨むこともあるだろう。一度でどの候補も過半数を得られなければ、決選投票になる。よほどの政治的動乱がない限り、それまでの政権与党と野党第1党の党首の一騎打ちになるはずだ。その時、自分はどうするのか。

衆院議員の大切な仕事の一つは「国民の代理人として、首相を選ぶ一票を投じる」ことだ。「自分はどちらが首相にふさわしいと考えるか」に対する答えは、候補者の段階から当たり前に持っていなければならない。それが有権者の投票の判断基準になるからだ。有権者が「自民党政権の継続を望まない」つもりで一票を投じた候補者が、当選後に首相指名選挙で自民党総裁に投票すれば、民主主義は成り立たない。

令和3年10月4日午後、衆参両院にて首相指名投票が行われ、岸田文雄議員が、伊藤博文初代内閣総理大臣から数えて第100代目の内閣総理大臣として指名されました。
令和3年10月4日午後、衆参両院にて首相指名投票が行われ、岸田文雄議員が、伊藤博文初代内閣総理大臣から数えて第100代目の内閣総理大臣として指名されました。(写真=内閣官房内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons