タモリは「観察するひと」

しかし、そもそも笑いにおいて知的であるとはどういうことだろうか?

知識や教養がある、言い回しが洗練されている、など答えかたはさまざまだろうが、タモリに関して言えば、それは人並外れて鋭い観察眼ということかもしれない。

彼一流のパロディであれ物真似であれ、その土台にあるのは、あらゆるひとや物事を徹底して観察する力、そこから生まれる独自の発想だろうと思えるからだ。

それで思い出すのは、横澤彪の「人間嫌い」というタモリ評である。横澤がそう思うようになったのは、タモリが撮影した写真展に行った際、「どの写真も暗いトーンで貫かれていて、人間が一人も被写体に選ばれていなかった」ことだった。

人間が好きでその一挙手一投足に興味津々ならば、人間を撮るだろう。ところが、タモリは、人間をいっさい撮っていなかった。そこに横澤彪は、タモリという人物の本質を見たように思ったわけである。

実際、「自分の方へ近寄ってくる人間を無下に退けはしないかわりに、手放しで愛想よく受け容れることもほとんどない。さめた目で相手を見つめている。つねに一線をへだてて応対し、冷静に観察しているといった風である」と、横澤はタモリを評する*7。

言い換えれば、タモリは、きわめてフラット、いわばスーパーフラットに他人と接している。そして、その相手をじっと観察している。ただ、それは単に、相手を突き放し、遠ざけようとしているわけではない。

自己主張しない司会者像

本当の「人間嫌い」ならば、夜な夜な新宿のスナックで気の置けない仲間と遊び続けることはなかっただろう。タモリが他人と距離を取るのは、あくまで観察にとって必要なものだからである。

太田省一『「笑っていいとも!」とその時代』(集英社新書)
太田省一『「笑っていいとも!」とその時代』(集英社新書)

観察と言うと無感情のようにも聞こえるが、そうではない。タモリにとって観察は、このうえない歓び、快楽に直結している。楽しいから観察する。それがタモリのなかに一貫する考えかただろう。そしてそれは、「いいとも!」におけるタモリの例の不思議な立ち位置にも通じるように思える。

「いいとも!」での自己主張しない司会は、他の出演者、そして観客を観察しているタモリが傍目にはそう映ったにすぎない。司会を放棄しているのではなく、そういうスタイルでタモリは司会をしているのだ。

その独特の、だがそれこそが番組の長寿の要因になったと思える司会術が見える場面については、本書でもこの後ところどころでふれることになるだろう。いずれにしても、こうして1982年10月4日、「森田一義アワー笑っていいとも!」は始まった。

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