同期の出世頭から一転、未開の地へ
青木さんと同世代である金岡俊克さん(54歳)は、富士ゼロックス人事本部でプロフェッショナル職として国内外の人材育成業務や海外組織の支援で忙しい日々を送っている。
1979年に同社へ入社した金岡さんのキャリアの振り出しは営業職だった。全国ランキング上位の常連になるほどの成績をあげ、昇進は同期のトップを走っていた。
そんな金岡さんに転機が訪れたのは入社11年目。営業教育部門へ異動になったのだ。さらにその4年後、海外十数カ国の教育マネージャーとして、シンガポールに拠点を置く富士ゼロックス・アジアパシフィックへ出向することを打診された。
「当時はまだアジア展開の重要性がほとんど騒がれていないころ。教育から営業の現場に戻って課長、そして営業所長になってと将来のキャリアを計算する感覚もありましたから、海外出向を打診されたときは三日三晩考えましたよ」
金岡さんが海外に行く決断をしたのは、「小さい男ね。今から“あがり”を考えているの?」という妻の痛烈な一言だった。
「言われてみれば確かに、偉くなりたくて入社したのではない。それにふと周囲を見渡すと、先輩たちの昇進・昇格が遅くなっていて、いわば高速道路で渋滞にぶつかった状況になっているわけですよ。そこに誰も走っていないアジアという道が私の前に開かれた。先はどうなるのかわからないけれど俺はこの道を行くんだ、と腹を決めました」
赴任した途端、統括エリアの各国からさまざまなリクエストがあり、対応に悪戦苦闘した。しかもシンガポールは公用語が4つある複合民族国家。同じ会社の社員でも「あなたの基準は何?」という地点から議論を始めなければならず、コンセンサスを得るのが難しかった。当初は言葉の壁もあった。
金岡さんはそれらの問題を1つ1つ解決しながら3年を過ごした後、ベトナムとフィリピンで主席駐在を務め、2002年に国内営業本部へ帰任した。海外勤務は合計8年間にわたった。
仕事で常に金岡さんが心がけてきたのは「かけがえのない人材になる」ことだという。
「要は『あの人がいないと仕事がはじまらない』という存在にならないと、後々厳しくなると感じていました。そのためには、その時々の年齢でやるべきことを絶対にやる。今、私は54歳ですが、54歳でやっておかねばいけないことが必ずあると思うんです。それを見過ごしてしまうと、次の機会はやってこないと思います」