道長は紫式部の能力を買っていた
道長の期待は、一条天皇のもとに入内させた彰子が皇子を産むことにあった。彰子のもとに『源氏物語』があれば、物語好きの天皇が彰子の在所を頻繁に訪れ、懐妊の可能性が高まる――。紫式部にこの物語を書かせたのは、そういう目的にもとづくというのである。
むろん、それは紫式部の教養と能力を道長が評価していたからにほかなるまい。その点では、2人の接点は以前からあったのだろう。紫式部が彰子のもとに出仕した際、公的な官があたえられたわけではなく、私的に採用されている。道長に見込まれ、『源氏物語』の続きを執筆することを期待されての出仕だった可能性が高いと思われる。
期待どおりに彰子が懐妊したのは、寛弘4年(1007)の暮れで、翌5年(1008)9月に敦成親王(のちの後一条天皇)が誕生した。その2カ月足らず前には、『紫式部日記』の執筆がはじまっている。
この日記についても、前出の倉本氏は「道長としては、自己の家の盛儀を仮名で詳細に記録させ、これを近い将来の妍子や威子、はては後の世代の摂関家后妃にとっての先例として残しておきたかったのだろう」と書いている(前掲書)。
ドラマでは、紫式部が「政によってこの国を変えていく」ことを期待した道長だが、史実から見えるのは、自身と一族の繁栄ばかりをひたすら願う姿である。そんな道長が、紫式部を高く買っていたのはまちがいないが、それも一族の繁栄に役立つからであった。
彼らの若き日の姿は伝わっていない以上、まひろとの熱愛が「なかった」とはいい切れないが。