史実に見る道長の女性の好み
むろん、この結婚は道長一人が望んで実現したわけではなく、父の兼家の策略等もからんでいるだろう。だが、道長に結婚を立身出世につなげようという意志があったのはまちがいない。
ドラマでは、道長のこうしたねらいは、まひろから告げられた「よりよき政をする使命」に根差すものとして描かれるのかもしれない。しかし、実際の道長は、結婚について親兄弟以上に現実的で、駆け落ちを夢想するようなタイプではなかったと思われる。
というのも、道長は倫子の前にも源氏の娘を妻にしている。醍醐天皇の子である源高明の娘、明子である。
父の高明は安和2年(969)、左大臣の要職から追われて太宰府に流されたので(安和の変)、叔父の親王の養女になっていたが、親王が没したため、道長の姉で、即位した一条天皇の母として皇太后になった詮子のもとに引きとられた。
なにしろ、天皇の孫という貴種だから、明子には何人もの男が結婚を申し込んだそうだが、おそらくは詮子の導きで道長と結ばれた。
倫子と違って明子には後見がなかったため、おのずと倫子との結婚とは違ったものになったが、それでも道長は明子とのあいだに4男2女をもうけた。史実に見える貴種好みの道長と、駆け落ちをしようと思い詰めるドラマの道長。
若気の至りはだれにでもあるものだが、やはり後者はファンタジーの域を出ないのではないだろうか。
紫式部はなぜ「源氏物語」を書いたのか
実際、道長と紫式部のあいだに恋愛関係があったという記録はない。それどころか、紫式部は長徳4年(998)の冬、おそらく26歳くらいで藤原宣孝と結婚する以前、恋愛が推測されるのは、20代前半で詠んだ以下の歌くらいである。
「おぼつかな それかあらぬか 明ぐれの 空おぼれする 朝顔の花(夕べ私の部屋に忍び込んだのは、本当にあなた? 夜明け前で薄暗く、この花が朝顔なのかどうかはっきり見えないので)」
宣孝の死去で、紫式部の結婚生活は2年で終わり、その数年後の寛弘2年(1005)か3年(1006)、一条天皇の后となった道長の長女、彰子のもとに出仕した。道長と紫式部の接点がはっきり見えるのは、その前後からである。
紫式部が『源氏物語』の執筆をはじめたのは、宣孝の死後、宮廷への出仕前だと考えられている。だた、当時は書くための料紙が非常に高価だった。歴史学者の倉本一宏氏の計算では、全54巻には617枚の料紙が必要となり、書き損じや下書きをふくめると、そんな枚数では済まなかったはずだという。
そのうえで倉本氏は、「これらの料紙、そして筆や墨を紫式部に与え、『源氏物語』の執筆を依頼(または命令)した主体として、道長を想定することは、きわめて自然なことであろう」と書いている(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。
その目的は「この物語を一条天皇に見せること、そしてそれを彰子への寵愛につなげることであった」と記す(前掲書)。