「伊勢神宮を男女で参拝してはいけない」はウソ

また、有力な寺社の近くには旅籠や飲食店の他に必ず遊郭があった。当時、講などで参詣する人の多くは男性であり、彼らはお詣りを終えると精進落としと称して遊郭に繰り込んだのである。もちろん、純粋な信仰をもって寺社巡りをする人もあったが、そういう人は一握りで、ほとんどの男性は「花より団子」というか「信仰より遊郭」だったのである。

かつて伊勢神宮にも妓楼80軒、遊女が1000人もいる大規模な歓楽街が内宮と外宮を結ぶ街道沿いにあった。しかし、明治維新を迎えて天皇家の皇祖神をまつる伊勢神宮が国家の宗廟そうびょうとして神社界で超然たる地位を確立すると、お祓い通りや見世物横丁などとともに撤去の対象となった。

ちなみに、伊勢神宮に夫婦や男女のカップルで参拝することはタブーと言われてきた。内宮、外宮とも女神をまつっているので、男女で仲良く参拝すると両宮の祭神が嫉妬して災厄をもたらすなどと、もっともらしい説明がなされてきた。しかし、実際には男性のお目当ては遊郭での精進落としにあり、妻や恋人同伴では遊郭に通うのに都合が悪いからである。

また、成田山新勝寺の精進落としの場は船橋にあった。江戸時代には船橋に呉服屋が軒を連ねていたといい、今でも古くからの呉服屋が残っている。これは妻や娘を家に置いて成田山に参詣した男たちが精進落としに遊郭に寄ると後ろめたさを感じ、罪滅ぼしに家で待つ妻や娘に着物を買って帰った。そこに目をつけた呉服屋が商魂たくましく店を出したのである。

日本人もまた性に奔放だった

江戸時代、武士の間には儒教倫理が普及して男女の間には厳しい規制が敷かれた。しかし、江戸や大坂をはじめとする大都市に住む町人の間には、儒教倫理は浸透していなかった。だから、大都市の大衆は本性のままに生きることができたのだろう。

瓜生中『教養としての「日本人論」』(KADOKAWA)
瓜生中『教養としての「日本人論」』(KADOKAWA)

また、江戸時代には仏教的な「憂世」を「浮世」と捉え、人生を刹那的な享楽のうちに過ごすという傾向があらわれた。その傾向は井原西鶴の『好色一代男』などをはじめとする文学に如実にあらわれている。ちなみに、西鶴は風俗をテーマに作品を作っていたが、幕藩体制が安定していた江戸時代前半の元禄時代のことであり、当時はまだ取り締まりの対象にならなかった。

しかし、幕府や諸藩が財政的に逼迫して寛政の改革が行われた江戸時代後期になると、風紀の取り締まりが厳しくなっていく。「江戸っ子は宵越しの金を持たない」というのも、当時の人たちの、将来を考えずに刹那的に楽しく生きようとする態度のあらわれである。その意味で江戸時代は、冒頭に示した歌垣に見られるような日本人の奔放な性格が開花した時代ということができるのではないだろうか。

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