「枕草子」を読み、彼女の天賦の才に気づいた
中宮とか、そのまわりにいる大臣などのことは、手ばなしのほめようなのだが、たとえば、何かの官にありつこうとして走り回る連中、つまり彼女の父親たちの階層の姿は突き放した目でみつめている。
髪の白くなった老人が、つてを求めて、宮中の女房の所へやって来て、自分にはこんな才能があるなどと、くどくど言っているのを、若い女房が小ばかにして、その口まねをするが本人は気がつかない――などというのは、現代に変わらぬ就職運動を描いてなかなか痛烈だ。
「こんなふうに、まるでひとごとのように書くのは、自分が上流階級にはいったつもりでいるからだ。つまり成り上がり根性だ」
学校でそう教わりもし、私もそう思いつづけて来た。
軽薄な、成り上がり根性の、いやな女――。
が、それだけだったら、私はこのシリーズに、彼女をとりあげはしなかったろう。
しかし「枕草子」を読んでいるうちに、少しずつ考え方が変わって来た。たしかに彼女は軽薄で、いい気なところのある女性だが、それとともに、彼女以外のだれにも与えられなかった、すばらしい天賦の才の持ち主であることに気がついたのだ。
あどけない子供の様子をことばで描く感性
清少納言だけに与えられた天賦の才――それは感性のするどさだ。宝石のきらめきとでも言ったらいいだろうか。
例をあげよう。彼女は「うつくしきもの」として、
「おかっぱの髪が、顔にふりかかるのをかきあげもせず、首をかしげて物に見入る子供」
をあげている。「うつくしきもの」とは現代の「かわいい」と「美しい」をかねたような意味だが、なにげないことばで、いかに巧みに、幼子のあどけない凝視を描きつくしているか、子供をお持ちのおかあさまなら、おわかりになるだろう。そして、この幼子の凝視は、清少納言自身の凝視でもある。
こうした、さわやかな感性をあげだしたらきりがない。そして、この部分にこそ、彼女の天分はあますところなく表われている。サロンの中での手がら話だけに目を奪われているとしたら、宝石の中から、わざわざ石ころをえらびとっているようなものだ。