どんなに支援策があっても「産まないほうがコスパがいい」
そうした文脈を踏まえて考えれば、いま政府が提唱している「3人産んだら大学無償化」は一見すれば子育て世帯に寄り添っている政策のように見えるかもしれないが、学歴競争・受験戦争への参入人口を増やす(大学進学以外の間口を相対的に狭めてしまう)せいで、たとえ数百万円程度の経済的便益があったとしても、それを帳消しにしてしまうほど「親としての精神的負担」は大きくなってしまう。
結局、教育投資を支援する政策をはじめとした子育て支援策がいくら出されようが、子どもをつくってしまえば「社会に迷惑をかけない、世間に顔向けできるちゃんとした親」をやることには変わりはない。最初から子どもをつくらなければ、公共の場で「ただしくない存在」になるリスクをゼロにできるし、なおかつプライベートを全部捧げて「子どもの人生の責任を取るちゃんとした親」という倫理的責務を課せられずにも済む。
そう考えれば「なんだかんだ言っても、やっぱり産まない方がコスパがいい」と考える人が増えることはそれほど不思議ではないし、現に中国や韓国はそうなっている。
命を大事にするからこそ、命が生まれない
現代社会は、歴史上類を見ないほど子供の安心や安全や健康や快適や自由が守られている社会である。また、さまざまな娯楽やエンタメにも恵まれており、通信技術も発展している。子どもにとってはまさしく理想的な時代のようにも思える。にもかかわらず、生まれる子どもは明治大正昭和平成の時代に比べれば圧倒的に少ない。
それはほかでもない、「平和で安心で安全で健康で快適で自由な社会の一員」を遵守するためのコストやリスクを、これから子どもを産み育てるはずだった世代の人びとが負いきれなくなっているからだ。
子どもが「子どもらしく」生きることは推奨されず、「社会の準正規メンバー」として順応することを期待される社会では、親は子どもを持てば持つほど「社会の正規メンバーとしてきちんと育て上げる」という管理責任を厳しく問われる機会が純粋に増えてしまうことになる。そんな社会状況で子どもを持ちたいとポジティブに思えるのは、子育てに経済的・人的リソースが豊富にある超富裕層か、あるいは社会から課せられる倫理観などどうでもよいと跳ね除けられるはみ出し者くらいになっていく。
まったく皮肉としか言いようがないが、いまほど社会が安全でも快適でも自由でも平和でもなく、親の責任も子どもの人生もはるかに「雑」に扱われていた時代のほうが、たくさんの子どもが生まれていた。
私たちは、「命」を大切にしすぎたせいで、「命」が生まれない社会に生きている。