兄に疎まれ、不遇の時代もくじけなかった

三井高利は、1622年、いまの三重県の松阪に、商家の四男四女の末子として生まれる。

14歳で江戸に出て、長兄の営む呉服店で奉公したが、なかなか認めてもらえなかった。かれの能力の高さが長兄俊次に疎まれてしまった。再び高利が江戸に出てくることのないように、母の殊法を支えることを名目に説得し、郷里に送り返される。28歳のときだ。

だから、かれが、再び江戸に出たのは、それから24年後、その長兄が亡くなった1カ月後、52歳のときだった。そこでようやく、悲願であった、いまの日本橋三越があるその場所に「三井越後屋呉服店」(越後屋)を開業する。

そして数々の商売の革命を起こすわけだが、ただの思いつきではなかった。長兄が亡くなるまで、三重県の松阪に根を下ろして、我慢に我慢を重ね、検証に検証を重ね、とにかく考えて、考えて、考えた。もし、再び、江戸に出る機会があったら、こういう商売をやろうと。つまり、小さなトライ&エラーを現場で積み重ね、三つの汗を徹底的にかいて、特に脳みそに汗をかいて、夢と野心と志を温め続けた。

母のもったいない精神を受け継いだ?

実は不遇と思われている松阪時代、三井高利がもっとも寄り添った母の殊法こそがブリコルールの体現者、もったいない精神の具現者であって、一切物を捨てない廃物利用の達人であったことにわたしは注目している。つまり高利のビジネスモデルの発想は殊法のやり方や考え方をロールモデルとしているのではないか、と。奉仕の精神の実行者でもあって、お店の気の利いたサービスすべては、殊法がいろいろ考え工夫してつくりだしたものであった。

こうして雌伏の松阪時代に考え抜いて挑戦した商いの方法が、世界で誰も思いつかなかった新しいビジネスモデルだった。

当時、最大の商品と言えば、着物だった。いまで言うアパレルだ。日本では着物。だから、日本では、金融業を除けば、着物を扱っている業者が、商売人としてはいちばんの金持ちだった。つくっている人よりも商っている人が儲けていた。西陣でつくった着物を京都の着物の豪商が売る、江戸の豪商が売る、というのが、一つのメガトレンドのビジネスモデルだった。