ヨーロッパも中国も「掛け売り」だった

基本的なスタイルは、顧客の家にいくつかの反物を見繕って持って行って売るというもの。相手は、大名や両替商などといった金持ち。かれらに、着物一着分の一反単位で、売る。代金は、その場では回収しないで、盆暮れの2回、期末に集金する。

これが当たり前の商売のモデル(屋敷売り)で、実は世界中そうだった。ヨーロッパの貴族の邸宅に出入りする業者も、中国のそれも。お客さんのところへたくさんの商品を持って行って、丸ごと掛けで買わせて、あとから代金回収する。いわゆる掛け売りだ。それが普通の商売のスタイルだった。

庶民は、お店に出かけて行って買うこともできたが、お店に商品が並んでいるわけではない。希望を言うと、店員が見繕って、いくつかを奥から持ってくる。その中から選んで、やはり一反、丸ごと買わなければならない。

価格は、といったら、基本、決まっていない。交渉次第で、その場で決まる。そもそも、定価という概念が存在しなかったからだ。

だから、庶民と言っても、ある程度裕福な人でなければ怖くて買えないし、そもそもそうでなければ相手にしてもらえない。それが、当時の普通の商売のスタイルだった。ビジネスモデルだったということだ。

商品陳列、値札は17世紀の江戸で生まれた

それを、かれは、180度変えた。17世紀の日本、江戸で、世界で初めて!

まず、対象を大衆にした。大名や豪商ではなくて、江戸の庶民、町民や農民を含む大衆をターゲットに設定した。のちのヘンリー・フォードを想起するよね。高利は200年以上も早かった。

そして、商品を店の前に陳列した(店前たなさき売りと呼ぶ手法だ)。それまで、店に入っても商品はなく、客は希望を言って奥から出してきてもらう方式だったのを、店に行けば、そこに陳列された反物を手にとって自由に見ることができるようにしたのだ。

駿河町三井越後屋の内装(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)
駿河町の三井越後屋の店内を描いた「浮絵駿河町呉服屋図」(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

さらに、そこには、値段が明記されていた!

正札しょうふだと呼ぶ手法だ。それまで値段というのは、交渉事だったのを革新し、これはいくら、これはいくらと、正札を付けて値段を固定化した。定価という概念が世界で初めてここに導入されたのだ。

さらに、反物は、一反まるごと買う必要はなかった。客は、必要な長さだけ買えるようになった。切り売りという常識を覆す売り方だ。もちろん庶民は大喜びである。支払いは、掛け売りなしのその場での現金払いだ。いまでいうチラシ広告の手法も世界で初めて編み出した。