政治経験がなかったのにいきなり政治に関わることに
大坂城内はすべて茶々が仕切っており、しかも女性であるから、何ごとにつけても急ぐことができないので、大坂方からの返事が遅れている、というのである。
ここにも、茶々の対応の遅さがみえている。しかし、これが茶々の性格なのか、あるいは後藤光次の使者がいうように女性であったからなのか、判断はできない。とはいえ、このことで茶々を責めることはできないであろう。茶々はそもそも政治経験がないのであるから。秀吉生前において、茶々が政治に関わることはありえなかった。死後においても、「五大老・五奉行」の執政体制や、その崩壊後の家康の単独執政になっても、茶々が政治に携わる必要はなかった。
ところが慶長6年3月、家康が伏見城に移り、羽柴家が単独で存在しなければならなくなったことによって、事情が変わった。羽柴家として、外部の政治勢力との間で、さまざまな問題について、政治折衝を行わなければならなくなったのである。羽柴家当主の秀頼はまだ9歳でしかなかったから、当然ながら独自に判断はできない。また秀吉後家であった北政所も、すでに関ヶ原合戦前に大坂城を出ていたから、茶々が羽柴家の女主人として、いろんな問題について判断を下さざるをえない状況が生まれてしまっていた。
家康と折衝する重圧が茶々を気鬱の病にしたのか
且元の身上引き立てを要請する書状を、家康に出したことがみえるが、こうしたことはそれまでまったく必要なかったことであったろう。しかも家康は、かつては茶々に出仕する側にあった人物である。それが事実上の「天下人」として、羽柴家の存在をも左右する人物になっていた。そうした家康に、政治的な要請を行うこと自体、政治経験のなかった茶々にとっては、どれほど大変なことであったか、と思うのである。
羽柴家が事実上、単独で存立しなければならない状況に置かれた直後、茶々は「気鬱」になっていたが、そうした政治への対応が、茶々の気分を悪化させたのではなかったか、と思われる。そうしたなかでは、羽柴家の古参家臣であり、秀頼の家老であった片桐且元を頼りとする以外なかったに違いない。そのような状況を踏まえると、本文書にみられる「秀頼の親代わりに」という茶々の言葉は、心底からの発言であったように思われる。
慶長8年(1603)5月1日、茶々は再び、医師曲直瀬玄朔の診療をうけている(『玄朔道三配剤録』)。先の場合と同じく、『医学天正記』の記載を掲げよう。