茶々は秀頼の関白任官を狙っていたが、羽柴政権は解体に
茶々が気鬱になったのは、このように羽柴政権の解体が進められている情勢をうけてのことであった、とみていいのではなかろうか。茶々の意向はおそらく、先に触れた伊達政宗も認識していたように、秀頼が成人した暁には、関白に任官され、「天下人」の地位を譲られることであったに違いない。
そのためそれまでの間、秀頼は次期「天下人」としての体裁を維持し続ける必要がある、ということであったと思われる。その場合、秀頼の居城と領知が確定されてしまったことは、いわゆる羽柴政権の財政から完全に切り離されたことを意味したから、大きな痛手と認識しただろう。
いずれにせよ、家康の伏見城移転から急激に進められた、羽柴政権解体の動向に、茶々は、秀頼の将来、羽柴家存続の在り方について、大いに気を揉むようになったのではなかろうか。
羽柴家のトップとして「政治的決定が遅い」と書かれた茶々
ところでもう一つ、茶々から豊臣家家老・片桐且元に宛てた文書からうかがわれることについて触れたい。それは茶々の対応の遅さである。茶々は前年から、且元の領知を増やしてもらいたいと家康に申し入れしようとしていたらしいが、「何かと申し候てうちすぎ候」と、いろいろ考えてしまうことなどがあって、結局は実現していなかった。今回になってようやく、家康に申し入れを行ったようであるが、且元から送られてきた返事への返事、すなわちこの消息を出すことについても、「心あしくておそく成り申候」と、気配りが悪くて遅くなってしまった、と述べている。
これらのことをみると、茶々はどうも、物事に迅速に対応できるような性格ではなかったように思われるのである。このことに関しては、後のことではあるが、思い起こされる話がある。『駿府記』慶長19年(1614)12月25日条に、大坂冬の陣での徳川方と羽柴方との和睦交渉がすすめられているなか、家康が交渉に関わっていた側近の後藤庄三郎(光次)に、交渉の進展状況を尋ねたところ、後藤光次は、使者からの報告として、「城中悉く秀頼御母(茶々)儀の命を受け、今又女の儀たるにより万事急がざる成る故、返事延引の由」と述べている。