就職浪人
高3になると両親は、「高校を出たら就職しろ」とうるさかった。高校の三者面談でも夫婦でくると、父親は「娘には就職してもらいます」と頑なだった。
だが担任教師は、「いや、娘さんは絶対に進学すべきです。成績は、文系科目は現代文と英語のライティング以外は圧倒的に優秀ですし、理系科目も数学以外は優秀です。娘さんはさらに知識を得るべきです。妹さんも優秀ですが、今知識を得るべきは姉の初音さんです!」と、文系科目は現代文と英語のみB判定、その他は学年で上位10%以内という柿生さんの成績を提示しながら力説。
すると父親は、「自宅から通える範囲の短大なら許す」と渋々了承。それが気に入らない母親は激昂し、大声で訳の分からないことをわめき散らし始めたため、父親と柿生さんで取り押さえる。その様子に担任教師は絶句していた。
その後、自分の進路希望に近い短大を見つけた柿生さんは、無事合格。やがて就職活動の時期になると、両親は「公務員以外許さない」と口をそろえた。
「父は自営業者、母はパートということで、経済基盤が安定しないこともあり、わが家は何度も保険証が切れることや税金を滞納することがありました。そのため両親は安定を求めたのでしょう。私は民間企業への就職活動と公務員試験対策を並行して進めましたが、残念ながら公務員試験の二次試験に落ちてしまい、民間と公務員対策の両立による体力の限界に陥ってしまいました」
柿生さんは公務員試験に落ちた時点で就職浪人を決意し、両親に頼み込んで許可をもらった。
一方、両親は妹には「好きなところに進学しなさい」と言い、ミュージカルや声優などに興味があった妹は芸術系の大学に進学し、東京で一人暮らしを始めた。
柿生さんは短大を卒業するとすぐにアルバイトを始め、祖母の介護の合間に公務員試験勉強に励んだ。翌年は公務員一本に絞り、第1志望は不合格だったが、第2志望は補欠からの繰り上がりで合格した。
祖母の死
晴れて公務員となった柿生さんの配属先は、実家から通うには遠かったため、一人暮らしをすることになった。中学、高校、短大時代にずっとやってきた祖母の介護は、今後は両親が対応することとなる。
実家を離れる日、「ばあちゃん。私、公務員になって遠くに行くんだ。頑張ってくるね」と柿生さんが言うと、祖母は手を握って号泣しながら何度も名前を呼び、「頑張ってね」と言ってくれた。
その1週間後、祖母は救急搬送され、即手術を受ける。祖母は原因不明の消化器疾患により、胃ろうになった。柿生さんはゴールデンウイークに帰省したが、面会謝絶のため祖母には会えなかった。祖母の退院が決まると両親は、ちょうど空きがあった特別養護老人ホームに入所させてしまった。
お盆休みにも柿生さんは帰省したが、祖母が体調を崩してしまい、面会できなかった。年末年始休みには、逆に柿生さんが寝込んでしまい、帰省できなかった。やっと祖母と再会できたのは、最後に会ってから1年半後の2018年春だった。
「半身麻痺とはいえ、杖があれば歩くことができて、ご飯にあれほど執着していた祖母は痩せこけ、車椅子で面会室にやってきた姿にショックを受けました。祖母はすでに父、母、妹を忘れていました。でも唯一私のことだけ覚えており、すぐに名前が出てきたので付き添いの父もびっくり。スマホで写した制服姿の私を見て、『かっこいいねぇ、本当にかっこいいねぇ』と言ってスマホに頬ずりし、別れ際には『良かったね、頑張ってね』と、声をかけてくれました。それが祖母との最後でした」
その約1年後、祖母が82歳で亡くなった。
「多少口が悪いところもありましたが、面倒見が良く、身体が弱い私が寝込むたびに側にいてくれて、私が初孫ではないのに、『初音ちゃんは初孫なんよ! 身体は弱いけどいい子やよ!』と、自慢してくれていました。最期は勤務中のため看取ることはできませんでしたが、父いわく『看取りに慣れた看護師さんたちがびっくりするほど穏やかだった』とのことです」
葬儀では柿生さんのアイデアで、「あの世への旅路の途中でお腹が空かないように」との思いを込めて、祖母が好きな食べ物を模した折り紙を棺に入れた。