短大卒業後、必死に勉強して公務員試験をパスした女性。社会人になった直後、10年近くワンオペで介護してきた祖母が他界すると、女性も心身の調子が悪化する。精神科で社会不安障害、適応障害と診断され、公務員も辞職。母親からは相変わらず罵詈雑言を浴びせられ精神障害者2級になった女性は両親から逃げることを決意し、完全に縁を切る法的手続きをすることにした――。
電気をつけていない部屋でうつむいている女性
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【前編のあらすじ】北陸地方出身で都内在住の柿生初音さん(仮名・30代・独身)は、両親が育児に全く無関心だったため、父方の祖母に育てられた。物心ついた頃から殴る蹴るの暴力や暴言を受け、4歳の時に高機能自閉症と診断されるも、両親は見栄や体裁のために療育などの支援を受けさせなかった。その後、祖母が倒れて半身麻痺と認知症になると、祖母と折り合いの悪かった両親は、祖母の介護を柿生さんに押し付ける。柿生さんが中2の晩秋、祖母は行方不明になった――。

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理解ある学校

行方不明になっていた認知症の祖母(74歳)が見つかった場所は、自宅から200mほど離れた有機肥料を作る農家の片隅だった。祖母は、元気な頃に野菜づくりをしていた自宅から400mほど離れたところにある畑へ行こうとして、途中、有機肥料を作る溜池のようなところにハマった。もがいて何とか出られたものの、疲れ果ててしまったため、うずくまっていた可能性が高いとみられた。

「警察やデイサービスの人に聞いたのですが、どうやら徘徊はいかいする人の多くは実家や関係者宅を目指すのだそうです。祖母は生まれてからずっと同じところに住んでいたので、長年世話していた畑が気になって見に行こうとしたのではないかと言われました。幸いにも軽度の低体温症で済んで良かったです。もしも用水路に落ちていたらと思うと……想像したくありません」

その夜、孫である柿生さん(当時14歳)は、祖母の監督不行き届きを両親から激しく叱責された。中1の頃から、祖母の介護のすべてを負担させられていたのだ。

一方、そんな家庭とは裏腹に、学校では理解ある教師に恵まれた。

「当時は“ヤングケアラー”などという言葉はありませんでしたが、中学では次第にストレスから来たであろう体調不良を訴えることが増え、気にしてくれた教師が私の家庭の事情を理解してくれたため、本当に助かりました。例えば、学校内で宿題を行う許可を出してくれたり、土曜日の午前中に苦手な数学を中心に補習を受けさせてくれたりと、特別に対応してくれました」

補習参加者は、最初は柿生さん一人だったが、公立高校の受験前には10人前後まで増えていた。そのおかげもあり、柿生さんは無事公立の高校に入学。

高校でも陸上部に入った柿生さんだが、祖母の介護は続いた。中学時代同様に両親は土日の部活に行くことを禁止したため、大会前や大会当日はいちいち両親を説得しなければ家から出してもらえなかった