「お客とは末永く」営業のDNA知る

日本生命保険相互会社社長 
筒井義信
(つつい・よしのぶ)
1954年、兵庫県生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業。77年日本生命入社。長岡支社長、企画広報部長などを歴任。2004年取締役・総合企画部長、07年常務、09年専務。11年より現職。

1999年3月、新潟県長岡市の結婚式場のホールで、壇上に立つ。目の前に、長岡支社の管内から集まった職員500人余りがいた。「このたび支社長に赴任した筒井です。私は、現場のことは、何も知りません。自分1人の力では、何もできません。皆さん、どうか、助けて下さい。よろしく、お願い致します」

東京の広報宣伝担当課長から長岡支社長へ着任した日、挨拶は、それだけで終えた。そして、深々と頭を下げる。後で知ったが、会場を埋めた女性営業職員たちは、驚いたらしい。それまでの支社長といえば、着任の挨拶は30分近く、「支社長として、何をやりたい」といった抱負を披露し、何でも知っているような顔で「私に任せて下さい。私の言う通りに動いて下さい」などと、長々と話した。まさに正反対だった。

長岡支社で働いていた女性が、その日のことを、よく覚えていた。みんなが「今度の支社長、すごいね」と口にして「私たち、やらなきゃ」と言った、という。計算づくではない。入社以来、営業現場を経験していなかったので、正直、引け目のようなものを感じていた。だから、率直に出た言葉だ。45歳。初めての現場で、大部隊を率いた初日。気づかなかったが、現場の歯車は、なめらかに動き出してくれていた。

管内には22の営業拠点があり、着任当時、残念ながら契約などをめぐるトラブルが続いていた。いまではそんなことはなくなったが、まずいことが起きると、拠点ではどうしても隠そうとする。それで対応が遅れ、傷口を広げてしまう。でも、きちんと処理すれば、後は怖くない。ダメなものはダメなので、無理はしない。それが、基本と思っていた。だから、拠点長が集まる会議で言った。「みなさん、何か少しでもおかしいことがわかったら、全部、表に出して下さい。私は長岡に何年いるかわからないが、私がいるうちに、膿はすべて出しましょう」

1つの危機管理だ。着任前から、大きな組織の頂点に立つ以上、いつでも責任をとり、身を退かなければいけないときは退く、と腹を決めていた。たとえ自分が与り知らなかったことでも、不祥事の内容次第ではそうしよう、と思って長岡へきた。

取引先が怒って、営業職員が「出入り禁止」にされたこともある。熱心さがいきすぎて、つい同業他社のことを悪く言ってしまい、「そういう営業のやり方は許せん」と雷が落ちた。そんなときは、拠点長に謝りにいかせず、自分がいく。なかなか許してもらえず、土下座のような平謝りもした。担当職員のためだけではなく、会社の信用を守るためだ。長岡勤務の前に広報や秘書などの職で得た経験が、そんな危機意識を植えつけていた。

現場には、厳しいことばかりではない。楽しいことも、たくさんあった。拠点を回り、拠点長や職員とざっくばらんに話すと、聞いたこともない世界を知ることができる。彼女らが企業などを訪問する際には、よく同行させてもらった。社長が、親子孫と何代にも渡って生命保険に入ってくれていて、いろいろな話を聞かせてくれる。あるいは、地域の主のような存在の年配者に、土地に溶け込む心得などを教わる。

現場力を、つくづく感じたことがある。訪問する前には、必ず、連れていってもらう職員に「支社長として、そのお客さまに話すべきことは、ありますか」と確認した。あるとき、「とくに、ありません。挨拶していただくだけで、結構です」という答えが返ってきた。「いや、せっかく訪問するのだから、具体的な営業の話など、何かお願いすることはないのですか」と重ねて聞くと、想像を超えた言葉を耳にした。

「やめて下さい。このお客さまからは、昨年、ご家族の保険にご加入いただいたばかりです。私は、このお客さんと10年以上お付き合いしておりますし、今後も末永くお付き合いしていきます。お言葉ですが、支社長さんは、数年でどこかへ異動されるのでしょう。私は、今後のお客様との末永い関係を大事にしたいのです。あまり成果を急ぐようなことは、したくないのです」

本社に長くいて、営業現場のことに、実感はなかった。「もう少し数を絞り、効率よくできないか」とか「外部の人間に営業を委託できないか」などといった議論も聞いた。だが、現場が持つ「顧客第一」の本気度に直面し、衝撃すら受ける。それは、本社から指示されてできたものではない。まさに現場の力で、育まれたものだ。「この現場のDNAを壊しかねないことだけは、ゆめゆめすまい」と、胸に深く刻んだ。