あまりに残忍な仕打ち

激怒した秀吉は、聚楽第の番をしていた17人を処刑している。まず鼻を削ぎ、日を置いて耳を切り落としたうえで、2日にわたって逆さ磔にするという残忍な処刑で、その後も100名を超える関係者が処刑されたという。

イエズス会宣教師のルイス・フロイスは『日本史』に、鶴松について「彼には唯一人の息子(鶴松)がいるだけであったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子供をつくる体質を欠いているから、その息子は彼の子供ではない、とひそかに信じていた」(松田毅一・川崎桃太訳)と書いている。

日本の為政者に忖度そんたくする必要がない宣教師が、ポルトガル語で書いてこそ残せた内容で、当時、秀吉に子種がないという噂が広く浸透していたことがわかる。秀吉はそのことに神経を尖らせていたわけだ。

家康に抵抗し続けたワケ

鶴松は2歳で早世するが、茶々は天正20年(1592)8月に拾、のちの秀頼を出産。茶々は大坂城で寧と並んで「両御台様」と呼ばれ(『佐竹古文書』)、秀吉の死後も豊臣家に君臨することになる。

そして、寧が京都新城に移り住んでからは、大坂城の女主人として秀頼を守り続けた。しかし、秀頼を溺愛するあまり教育すら施さなかった、という見方は誤っている。秀頼の教養は文武にわたって、親王や公卿、高僧といった当時の文化人とくらべて遜色なかったとされる。

ただ、茶々がそんな秀頼を守り続けたのは事実である。慶長10年(1605)4月、家康の嫡男の秀忠への将軍宣下が行われると、翌月に家康は高台院(寧)を通じて、その祝いに上洛するよう秀頼に求めた。しかし、茶々は断固として拒否し、どうしてもというなら秀頼を殺して自身も自害すると主張した。

すでに2度も落城を経験している女性ならではの気概だといえよう。城を攻められては、最初は父と兄を、次は母を失った茶々。かろうじて生き延びることで、ようやく天下人の息子の母にまで上り詰めた。それだけに、大坂城とわが息子には、絶対に手を出させない、という強い思いがあったのではないだろうか。抵抗したのは、家康だからではないだろう。

だが、その気概が強すぎたがゆえに、大坂の陣と、そののちの豊臣家滅亡にもつながった。ドラマの底流にある家康への恨みは荒唐無稽だが、自己主張が強く、それを支える精神力もまた強かったことだけは疑いようがない。

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