秀吉の愛妾ではなく正室だった
秀吉の正室はいうまでもなく北政所こと木下寧で、別妻として茶々のほか、茶々の従姉でもある松の丸殿こと京極龍子、前田利家の娘の加賀殿こと前田摩阿、織田信長の娘の三の丸殿らがいた。そのなかで茶々は早い時期に求婚されたが、前出の黒田氏は、実際に結婚したのは天正14年(1586)の半ば以降で、松の丸殿や加賀殿らより遅いとみる(『お市の方の生涯』)。
ただし、福田千鶴氏は「天正十二年の段階ですでに三姉妹の進路は決められていたのではないだろうか」と書く(『淀殿』)。すなわち、茶々は秀吉の妻、初は京極龍子の兄である高次の妻、江は尾張(愛知県西部)の有力国人、佐治一成の妻(のちに豊臣秀勝、その死後は徳川秀忠と再婚)という進路である。
いずれにせよ、娘たちの「進路」が決まるまで自身の結婚を留保したのであれば、長女としての責任感は強かったと思われる。
ところで、茶々は秀吉の側室、もしくは愛妾だと思っている人は多いと思うが、福田氏は寧々に次ぐ事実上の正室だったとみる。事実、太田牛一は『太閤さま軍記のうち』に茶々を正妻の敬称である「北の御方」と記し、秀吉自身が茶々を、公卿などの正室の敬称である「簾中」と呼んだという記録もある。位階をもつ大上臈がお付きの女中だったことなどからも、それは裏づけられるという。
秀吉が激怒した落書き
茶々の立場が、妊娠を機にさらに高まったのはいうまでもない。天正16年(1588)10月に、翌年誕生する鶴松の妊娠がわかると、秀吉はまず茶々を聚楽第(京都市上京区)から茨木城(大阪府茨木市)に移し、淀城(京都市伏見区)が完成すると、さらにそこに移して出産させている。
茶々が「淀」という字を付けて呼ばれるのはこのためだが、淀城に住んだのは鶴松の出産前後だけで、その期間は1年にも満たない。
秀吉が茶々を急いで茨木城に移したのは、世間の雑音から茶々を守ろうという意識があったものと思われる。秀吉のそうした意識は、天正17年(1589)2月25日夜に、何者かが聚楽第の表門に張り出した落首への対応からみてもわかる。
数首あったという歌のひとつは「大仏のくどくもあれや鑓かたなくぎかすがいは子だからめぐむ」というもの(『武功夜話』)。当時、秀吉は京都の東山に大仏殿を造る名目で、鑓(槍)や刀を没収していたことと、子種がないはずの秀吉に子供ができたことをかけ、妊娠は大仏(大仏殿の釘やかすがい)の功徳だと嘲笑している。