史実とは異なる大河での家康と市の関係

そもそも、家康と市が幼少期に交流したという記録はない。

ドラマでは竹千代と呼ばれた家康が、今川義元の前に織田信秀(信長の父)に人質として差し出されていたときの話として、市と交流する様子が描かれた。しかし、竹千代が信秀のもとで過ごしたのは天文16年(1547)から17年(1548)だと考えられるが、市の生年について黒田基樹氏は、「結婚と子どもの出産年齢からの推定として、天文十九年頃の生まれの可能性が高い、とみておきたい」と記す(『お市の方の生涯』)。そうであれば、家康が織田方に送られていたとき、市はまだ生まれていない。

その後、2人が知り合った可能性も否定できないが、市が家康の助けを期待していたことはありえない。

天正10年(1582)10月末、秀吉は勝家と信長の三男の信孝が謀反を起こしたという名目で、信長の次男の信雄に織田家の家督を継がせるというクーデターを起こした。これを受けて家康は、12月22日付の秀吉宛て書状で祝意を表している。すなわち、この時点で、家康は[勝家=市]と敵対していることになり、助ける云々以前の話である。

「淀殿」といえば、北条政子、日野富子と並んで「日本最大悪女」の一人に数えられ、江戸時代には散々「淫婦」として喧伝された。だが、こうした見方について福田千鶴氏は「豊臣氏は徳川氏によって亡ぼされたのではなく、『淀殿』の不義により内部から崩壊していったのだと理由づけており、徳川氏による天下支配を正当化しようとする見方が底流にある」と書く(『淀殿』)。

だから、人間としての茶々をそこから拾い上げることには意味がある。しかし、いくらドラマだからといっても、史実を検証すればすぐに否定される逸話にその行動原理を求めてしまっては、本末転倒だと思うのだが。

伝 淀殿画像(画像=奈良県立美術館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
伝 淀殿画像(画像=奈良県立美術館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

茶々が秀吉に提示した結婚の条件

では、浅井茶々とは、わかっているかぎりどんな女性だったのだろうか。

茶々、初、江の3姉妹が秀吉の庇護を受けたのはまちがいない。北ノ庄城から救い出されたとき、茶々15歳、初13歳、江11歳ほどだったと思われ、当然、自立して生きることなどできるはずがない。

茶々は北ノ庄から安土城へ移ったのち、秀吉が大坂城に移るまで本拠地にしていた姫路城に入ったと考えられている。秀吉に同行して姫路入りしたのであれば、茶々はすでに秀吉にとって特別な存在だったのだろう。そして『渓心院文』には、秀吉が15歳の茶々に結婚を申し入れた旨が記されている。

黒田基樹氏は『お市の方の生涯』に、茶々と秀吉の「結婚」についてこう書く。「これは茶々が、三人姉妹の長女の立場であったことから、妹二人の処世に責任を負っていたこと、それを実現しようとしての行動とみることができる」。すでに実家もない三姉妹の人生は、「しかるべき人と結婚することでしか遂げることはできない状況にあった。そのため茶々は、自身は秀吉からの結婚を申し入れられたことで、秀吉の庇護をうけることができるようになるものの、二人の妹が処世できるように配慮して、自身の結婚の条件に、妹二人の結婚の取り計らいを提示した」というのである。