熱量に関係なく「オタク」を名乗れるように

オタ活や推し活をはじめとしたエンターテインメントは別に消費しなくても生きていける。そのうえで、自分が好きで消費しているのならば、その消費は能動的であるべきだと思うし、探求心や興味の幅を自ら狭めるのはもったいないと思う(余計なお世話かもしれないが)。

一方で、彼らを擁護するわけではないが、さまざまなモノに興味を持ち、その場その場で消費されていくモノが異なるのは、現代消費社会を見ればおかしなことではないだろうし、それこそ同じ対象物にしか興味を持たず、それだけを熱心に消費している者のほうが稀有だろう。

これだけの情報やモノに溢れているなかで一つの興味対象だけを愛せというほうが酷だし、いろんな趣味があることはなんら問題のあることではない。また、好きなモノを消費するうえで、義務感や他人からの強迫観念に駆られてしまうのもおかしいとは思う。

そのため、今や熱量に関係なく人はオタクを名乗っているということを認識する必要がある。私たちが使う「オタク」という言葉の中には、他のオタクから「この人はオタクだから」と熱心に消費していることが承認されている者もいれば、自身の趣味に優劣をつけ、熱心に消費しているモノをオタク(オタク趣味)として位置づけている者もいるし、表面的で、受動的で、つながりを得ることを目的とするレベルで消費している者もいるのである。

使ったものをすぐにメルカリで売る若者

これは余談になるが、先日Twitterでディズニーランドの裏ワザと称し、下記の投稿がされていた。

まさにこの投稿者は、即時的で、その瞬間のために行うという消費を体現しているといえるだろう。

たしかに、日常でそのカチューシャをつけることもないし、ディズニーランドに行く仲間が常に同じわけではないから、次行くときにも同じようなモノを買うかもしれないし、それが簞笥たんすの肥やしになるならば、まだ市場価値があるうちに手放すのは合理的といえば合理的である。

仮に2000円で買ったモノが1800円で売れたとしたら、200円で一日使えて、家で保管しなくてもいいというメリットがあるのならば、タイパもコスパもいいといえるだろう。あくまでもその日、その場所でのニーズを満たすことが目的であり、現在志向の消費の側面も垣間見ることができる。

廣瀬凉『タイパの経済学』(幻冬舎)
廣瀬凉『タイパの経済学』(幻冬舎)

とくにSNSの普及によって流行やミームが誕生すると、こぞってみんながそのネタを消費することで、SNS上には再現可能性の高い同じような消費結果が並んでいる。でも気がついたころにはそのような投稿も減少し、マスメディアがその流行について触れたときにはネットではもう下火、なんてことはざらにある。現代の文化にまつわるムーブメントは、一緒になって瞬間的に盛り上がる集合的沸騰の形式で現れることが多く、短命で、また時空間として非常に拡散した場所で起こる(*1)

趣味にしても、日常から得られる刺激にしても、消費者の興味は移り変わりやすく、同じモノやコトに留まるのは不可能といえるだろう。

(*1)南田勝也「変わりゆくコンテンツ」辻泉・南田勝也・土橋臣吾編『メディア社会論』有斐閣ストゥディア、2018年

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