「自明の前提」への大いなる疑問
ジャン=バティスト・ラマルク(1744-1829)の「用不用説」の場合は「機能が形質を変える」ことを明示していましたが、両者の違いはそれが直接的か、間接的かというだけですから、機能第一主義に則っている点では共通しているのです。
変異の原因は遺伝子の突然変異だとするネオダーウィニズムの場合は、個々の変異の出現に関しては機能第一主義を脱してはいますが、「機能が適応的な変異を固定する」というその後のプロセスは「機能第一主義」であり、「生物は環境に適応するように進化する」というのは結局のところ、「生物はより機能的になるように進化する」と言っているのと変わりはありません。
そしてこれは、「その場所に適応していない変異が現れると淘汰される」ことを自明の前提としているのですから、不適応的なはずの「ヒトのはだか」が淘汰されないことを全く説明できないのはある意味当然です。
でも、「自明の前提」というのは本当に「自明」なのでしょうか?
適応的でない変異個体が現れたとして、その個体が生きづらいその場所にそのままとどまって、なすすべもなく淘汰されていくなんてことが本当にあるのでしょうか?
自分が適応できる場所を探すほうが「自明」
例えば冬のある日、あなたは上着を忘れて出かけたとします。あまりの寒さに凍えそうになっているのに、その場でただじっとしていることを選びますか? 少しでも暖かい場所に移動して、体を守ろうとするのが普通ではないですか?
うちの近所をうろうろしている野良猫だって、暑い日は風通しが良くて涼しそうな場所でゴロゴロしているかと思えば、ちょっと肌寒い日は陽当たりが良い場所に移動して気持ちよさそうに寝ています。暑さや寒さを我慢して無理に同じ場所にとどまるなんてことを彼らは絶対にしないのです。
動物の場合はこうやって、自身がより適応しやすい場所を探して移動するのが普通です。変異が起こった個体にも同じことが言えますから、変異のせいで居心地が悪くなったのであれば、その場を離れて自分が適応できる場所を探す、というほうがむしろ「自明」なのではないかと私は考えています。