中途半端な私と「三田会」
「一切学歴は伏せよう」と前座の時はそうふるまうのが当然となり、それも慣れつつあった頃、とある慶應関係者の方から結婚式の司会の仕事をいただきました。
そこで、出席者の中のごく一部の慶應関係者が、酔っぱらった勢いで「若き血」を歌い始めたのです。
私は「慶應関係者以外の人が感じた『若き血』への違和感」を司会者というフラットな立場として、全身に浴びることになりました。
「若き血」を神宮以外の、慶應関係者以外も大勢いる環境で歌うことへの周囲からの「拒否感」でした。詫びを入れに向こう側になだめに行こうとすると、「あんたもそちら側だもんな」と明らかに私もその経歴から「拒否」されることになりました。
こんな雰囲気になったのは一度や二度じゃありません。
あの頃の釈然としない心模様、まるで「こうもり」のような中途半端な自分の居場所が、今回の夏の甲子園でよみがえってきてしまったのです。
そして、9年半という長い年数を前座に費やした暁に、談志に命名されたのが「談慶」という芸名でした。これは同時に「慶應関係者にも顔を売れ」という「解禁」でもありました。以後、真打昇進の口上書きには当時の慶應義塾・安西祐一郎先生に書いてもらうなどのご縁も芽生え、慶應義塾のOB会組織「三田会」にも厄介になっています。
つまり、私の「慶應」との距離感はとてもアンビバレントで、センシティブなものなのです。
こんな歴史を歩んできたのだから、「若き血」や「塾歌」に対しては「慶應出身者以外もいる席で歌われるケース」に対しては敏感になってしまうのです。
談志が教えてくれた世間の目
そして、今回それが神宮球場ではなく、甲子園球場でしたからその思いはより増幅されてしまったのです。
あの記念すべき優勝からしばし時間も経過し、冷静に反芻してみると、たとえば自分も得意先の塾高関係者から応援に誘われて甲子園に行っていたとしたら、大声援を上げていたのかもしれません。仙台育英応援側のサンドイッチマン伊達さんの「慶應のあの応援はあれでいい」というコメントも伝わってきています。久しぶりに大観衆と一体感で味わうノスタルジーには限りない魔力があります。私もそれにはシンパシーを覚えます。
でも、やはり、あの大声援は恥ずかしかった。
それは前座時代に談志から盛んに言われた「慶應出身なのに」という叱責にあるかもしれません。これは世間の目を代弁しているものだったと思うのです。落語家にしてみれば一番大切な感受性の特訓でもありました。
世間はただでさえ不景気なのに、「平日の昼間から新幹線使って甲子園まで行き、ビールを飲んで無邪気に応援している人たち」に対して、目の敵になるのは当然です。そんな恵まれた階級にいると思われている人たちが、いくらスポーツの声援の延長とはいえ、球児へよりも自分たちの郷愁を優先しているようにしか見えなかったとしたら……。
慶應の場合、「社中協力」という精神があり、直接の慶應高校卒業生ではなくとも、「慶應」のよしみで応援し合うのが前提となっています。でも、それだって慶應関係者以外の方から見たら「身内びいき」「自分たちの利益のために群れている」と判断されてしまうものなのです。
今回、思い浮かんだ言葉があります。それが、「ノブレスオブリージュ」です。洋菓子屋の名前ではありません(笑)。
「高い社会的地位には義務が伴う」ということを意味します。今回これが幾分足りなかったのではないでしょうか。