学歴がコンプレックスだった父

その前に私の父親のことからお話ししましょう。

私の父は昭和6年9月19日という、満州事変の翌日、つまり日本の暗黒期に生を受けました。日本全体が窮乏期でもあり、終戦直後の国民学校高等科(今の中2)の時に、14歳で家計を背負うために働きに出ました。

学歴は高校すら行けなかった父のコンプレックスとなりました。地元の丸子実業(現・丸子修学館)高校が甲子園に出場した時、近所の子が選手として頑張っている姿を見て「俺も高校で野球、やりたかったな」と涙を流したのが私の幼き日の父親の「原風景」になりました。

「勉強で頑張れば、親父は喜ぶ」。原風景は原動力にもなりました。私の兄を1歳2カ月で亡くしていることがそれに拍車をかけます。

真剣にテストに取り組む男子学生
写真=iStock.com/xavierarnau
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「学校出てなくて馬鹿にされたこともあったよ」と酒を飲んで泣く姿も何度も見たものです。高校から私を私立に行かせてもくれました。その学費を払うべく有機溶剤系の仕事に携わり、それがもとで宿痾のような公害病を背負ってしまいました。

そんな父親の苦労とは裏腹に私は大学に入り、青春を謳歌し、就職したまではよかったのですが、サラリーマンを3年務めただけで私は談志門下の落語家になりました。

慶應出身のクセにと罵られた私

さあ、そこでは徹底的に学歴を否定される地獄の修業生活が待っていました。

談志は特に厳しく、何かにつけ「慶應」という経歴が私の言動をチェックする指針となりました。普通に物事を処理しても「慶應だから」と言われ、それとは真逆にドジな私でしたから、「慶応出ているのにこの程度か」と罵倒される日々の連続でした。

父親が「学校出ていないから」と馬鹿にされ泣き、その息子は「大学出ているのに」と馬鹿にされ泣くという構図は、正直今でもこうして綴っているだけで涙があふれそうなほどセンシティブなのです。