旭姫は家康と再婚してわずか4年後、聚楽第で亡くなった
上洛すれば殺される可能性もあった訳ですから、家康としては上洛するか否か迷うところもあったでしょうが、拒否すれば秀吉軍との戦が始まり、多くの将兵や民衆が死ぬことになる。それを避けるために、家康はいざとなれば「私一人が腹を切って、万民を助ける」(『三河物語』)との思いを固め、上洛の途についたのです。大坂に到着しても、家康が秀吉に殺されることはありませんでした。
さて、家康の正室となった旭ですが、天正18年(1590)1月に病死してしまいます。家康に嫁いでからわずか4年後のことでした。前夫と離縁させられた精神的ショックがたたり……というよりも、何らかの病となり、亡くなったのです。
旭姫は、母・大政所が病だと聞くと、見舞いのため、駿府から大坂に行くこともありました(1588年)。そして、京都の聚楽第に住むことになったのです。以降、旭姫が駿河の家康のもとに戻ることはありませんでした。旭は聚楽第で亡くなっています。家康との結婚生活は、実質2年。親族も知り合いもいない駿河で暮らすことは、旭姫にとって辛かったのかもしれません。