簡単には本丸にたどり着けない
おそらくは攻城戦を想定して築かれた名古屋城は、きわめて攻めにくい造りになっていた。まず、北から西南方面は低湿地が広がり、城がある台地はそこから絶壁ともいえる崖を上がった高台にある。
このように放っておいても防御力が高い北側に本丸をはじめ城の中枢部を置き、南に広がる平野部には二の丸、その外側に広大な三の丸が構えられた。それぞれ石垣と広く深い堀に囲まれているので、敵の侵入は困難だ。
それでも敵が外堀を越えて三の丸に侵攻したとしよう。ほぼ正方形の本丸は、左上の御深井丸、左下の西の丸など、広大な堀と高石垣に囲まれた曲輪で囲まれ、なかなかたどり着けないが、こうして幾重にも守られた奥にある本丸単体の防備もまたすごい。
敵の侵入はまず不可能
8メートルという深い堀で囲まれた本丸は南に大手口、東に搦手口があり、それぞれ門を二重構えにし、敵がまっすぐ入れないように二つの門をずらした枡形を構成している。さらに、それぞれの出入り口(虎口)の外側には、門を守るために堀で囲まれた馬出がもうけられた。
また、本丸の東北、東南、西南の隅には3階建ての櫓が建ち、西北の隅には天守がそびえていた。また、これら四隅は土塀ではなく、多門櫓でつながれていた。
多門櫓とは長屋式の櫓で、高石垣上にこれが連なっていると敵の侵入はまず不可能で、守る側は天候に左右されず屋内から敵を射撃できた。
姫路城の2倍というドデカい天守
そして、天守が超弩級の建築だった。加藤清正が築いた天守台の石垣上に建った、5重5階地下1階の巨大な天守は、1階の大きさが約37メートル×33メートル。内部に敷かれていた畳は1759畳におよんだという。
36メートルという高さは、のちの江戸城天守や徳川大坂城天守にかなわなかったが、4425平方メートルという延べ床面積は姫路城天守の約2倍で、史上最大だった。
大天守と小天守からなる連結式のこの天守は、一般には松や杉材が使われることが多いのに対し、高級な木曽ヒノキで建てられ、約30センチもあった壁には厚さ12センチのケヤキ板が鎧状に埋め込まれていた。
こうして壁面を強固にするだけでなく、ほかにも徹底した防御態勢が敷かれていた。小天守の入り口から入って大天守の1階にたどり着くまでに、4カ所の門扉を通り抜け、5回も直角に曲がらなければならなかった。また、小天守と大天守の入り口の門扉はともに総鉄板張りで、頭上に石落としが開けられていた。
完成してから300年以上、残っていたこの天守が、昭和20年(1945)5月の空襲で焼失したことは、悔やまれてならない。