豊臣包囲網のラストピース

家康の隠居城として、慶長12年(1607)から天下普請で大改修された駿府城(静岡県静岡市)も、豊臣方が東進してきた際、江戸の手前で食い止める役割を負っていた。

天下普請ではないが、姫路城(兵庫県姫路市)も西国の大名を牽制するために、家康が娘婿の池田輝政に命じて大改修させて生まれた城だし、伊賀上野城(三重県伊賀市)も、家康が信頼する藤堂高虎に命じて、大坂包囲網の一翼を担わせた城だった。

こうして着々と形成された大坂包囲網の決定版が、家康が慶長14年(1609)11月16日に築城を発令した名古屋城(愛知県名古屋市)だった。

もともと尾張国(愛知県西部)の中心は清洲だった。関ヶ原の戦いののち、家康は四男の松平忠吉を52万石で清洲に入れたが、慶長12年(1607)、28歳で早世してしまった。このため、まだ8歳だった九男の義直を清洲城主にしたが、その居城は清洲のままでいいのか。家康の答えは「否」だった。

というのも、清洲城は城内を五条川が横切っていて、思い通りの縄張り(基本設計)が困難なうえ、水害にも弱い。東海道を防衛するためにも適地ではない。そこで、家康は北側から北西側に広大な湿地が広がる熱田台地の北西に、まったく新しい城を築く決意をしたのだ。

豊臣秀頼
豊臣秀頼(画像=京都市東山区養源院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

恐ろしいくらい短かった工期

家康の力の入れ方は尋常ではなかった。西国や北陸などの豊臣恩顧の17大名に命じて、慶長15年(1610)閏2月に工事がはじまり、途中からさらに3大名が加わった。こうして20の大名が参加し、動員された人夫は20万人にもおよんだ。

したがって、工事の進捗しんちょくは恐ろしく速かった。およそ半年後の8月27日に天守台が完成し、年末までにほとんどの石垣が積みあがっている。面積が100ヘクタール近い巨大な城郭の石垣が1年足らずで完成するなど、常軌を逸している。

とはいえ作事、すなわち建物の建築にはそれなりの時間がかかる。本丸御殿が完成して城全体が竣工しゅんこうしたのは、大坂夏の陣直前の慶長20年(1615)2月だった。