「わたしたちは見えない存在」
「船室のテレビであなたの講演を見て、あなたならわたしたちのことをわかってくれるんじゃないかと思ったんです」彼がテレビを指しながら言った。
彼の話を聞いて自分を恥じたが、表情に出さないよう努めた。2人で立ち話している間、わたしはとっとと紅茶をもらって、ドアを閉めてベッドに戻ろうと考えていたからだ。
気を取り直すと、わたしはドアを開けて彼を招き入れた。彼は椅子に座り、わたしは紅茶を2杯注いで、彼と向かい合うようにベッドに座り、2人で黙って紅茶を飲んだ。以前に結婚と家庭の心理療法士になるための訓練を受けたとき、沈黙にはパワーがあることを学んだ。今日の利用文化では、沈黙は過小評価されている。黙々と考えた挙げ句に突然ひらめいたことが、しばしばブレイクスルーや斬新なアイデアとなるにもかかわらず。
やがて、スチューワードはわたしを見ると、ささやくような小声で話し始めた。
「この船内で、わたしたちは見えない存在なんです。お客さまが来ると、通行の邪魔にならないよう壁に身体を押しつけます。支配人がやって来ると、何か悪いことをやっていると疑われないよう、壁に身体を押しつけるんです」
「わたしたちを自動販売機みたいに扱う」
「みんなは、わたしたちを自動販売機みたいに扱うんです」と彼は続けた。「お金を投入するみたいに指示を出し、わたしたちがそのとおりに正確にやるまでイライラした様子で見てます。この船内で一番人間らしく扱われるのは、指示どおりにできなかったときですかね。まるで彼らのほしいものがわたしたちの体内で詰まってしまったみたいに、わたしたちの身体を揺すりたそうにするんです」
彼はさらに船上での生活と仕事に関する力学や政治学を話してくれたので、組織の構造が複雑ながらも何となく理解できるようになった。わたしはクルーズ業界のことを何も知らない部外者だったが、彼が流暢かつシンプルに話してくれたので、彼自身や同僚たち、上司や乗客が毎日どんなことを経験しているのか、全体像がわかるようになった。わたしは目を丸くしながら話に聞き入った。
わずかな“自由”な時間中に、この若者と仲間たちはカンファレンスの講演を聴いた。そしてわたしの講演を見て、チャンスだと思ったのだ。そのチャンスを前に、彼は勇敢かつ少々無防備な行動に出た。
創造力を発揮するとまではいかなかったが、わたしが飲みたがるだろうと考え、紅茶を持ってわたしの部屋までやって来た。彼はこのチャンスを捉えて、自分と他のスチューワードたちの日々の経験を改善するために、何かしらアドバイスをくれそうな人と接触しようとしたのだ。おまけにかなりのリスクを冒して。彼自身も言っていたが、招かれてもいないのに彼が乗客を訪問することを上司は許さなかっただろう。
あらゆる面で、彼がしたことはリーダーシップだった。