問題はストレスが発生することではなく、解消できないこと

ストレスという言葉には心労や重圧といった否定的な印象がありますが、実は本来、生存や成長のためには不可欠な「外部情報への反応」です。ストレスを感じ、身体を一時的に緊張状態に持っていくことで、危機と対峙たいじし、それを乗り越えたり、困難に前向きに対処することができます。またストレスは、より高い目標を掲げたからこそ発生する場合もあります。優れたアスリートは、プレッシャーを前向きに楽しみ、それを糧に好成績を挙げます。

しかし、狩猟採集民族の頃から変わらない私達の身体と現代社会のミスマッチによって、私達はストレス状態から逃れられない状況に陥る場合があります。

人類の死因が飢餓、感染症、殺人、出産、出血死だった時代は過ぎ去り、日常的に生命の危険に直結するストレスを感じる機会は少なくなったはずです。しかしそれでも私達は生命の危険を抽象概念として理解することができるので、何か危険な状況に陥る可能性を想像するだけでストレスを感じます。

会社の将来に対する漠然とした不安、考え方の合わない上司に対する不信、さらには自分自身の能力や才能に対する不満……など、将来の可能性を想像する力があるがゆえの私達のストレスは、生命の危険がなくなっても減ることはありません。

ストレスを感じても、闘争も逃走も防御もできない

身体的には安全でも、狩猟採集民族としての私達の身体機能は、ストレスに対して同様にコルチゾールを分泌させるため、快適なオフィスビルの会議室の中でも動悸どうきが高まり筋肉が緊張し、喉がカラカラになります。

一方で、近代社会においてはストレスを感じても、闘争も逃走も防御もできないという閉塞へいそく状態に陥ることがままあります。

嫌いな上司がいる職場でも、上司を首にすること(闘争:Fight)も、会社を辞めること(逃走:Flight)も、定時前帰宅や出社拒否をすること(防御:Freeze)もできない状況が続き、豊かで清潔で安全な環境にもかかわらず、狩猟採集民族の頃と同じ強いストレス状態が構造的に(安全だからこそ)慢性化する危険があるのです。