高校球児も僧侶も「形」が大事なのではない
では日本の仏教界はなぜ、丸刈りと有髪が混在しているのか。それは明治維新時の僧侶の俗化政策に遡る。つまり、政治によって有髪が奨励されたのだ。
明治新政府は1872(明治5)年4月、「僧侶の肉食妻帯蓄髪(有髪)の自由」を布告する。翌年には尼僧にたいしても、同様の布告をした。
江戸時代まで僧侶は戒律に基づいて自主的に獣肉食・魚肉食や妻帯を禁じ、頭を剃っていた。それを、政府は一方的に法令を出して「在家並みに、肉や魚を食べてもよし、妻をめとってもよし、髪を生やしてもよし」と定めたのである。つまり、仏教界への規制緩和であった。
一連の仏教の俗人化に抵抗した僧侶は多く、丸刈りや剃髪を貫いてきた。それも近年、変化の兆しがみられる。今後は、有髪の僧侶がますます増加していくことが考えられる。
それは、女性僧侶が増加傾向にあることや、兼業型僧侶の増加などが背景にある。社会と接点が生まれれば生まれるほど、僧侶のスタイルが俗化していくことは否めないし、やむを得ない。女性や社会人出身の僧侶を多く取り入れていくシステムを整えていかねば、仏教界は先細っていくことだろう。
ある長野県の浄土宗僧侶はいう。
「僧侶のなかには剃髪や丸刈りに抵抗のある人もいると思いますが、それは少数派でしょう。最近は、おしゃれで丸刈りにする一般人も増えており、抵抗感が和らいでいるようです。僧侶は姿形より、行いが重視されます。しかし、ある程度の清潔さは必要かなと思います」
ブッダの言葉をまとめた経典「ダンマパダ(法句教)」には、こう書かれている。
《頭を剃ったからといって、戒め守らず、偽りを語る人は、「道の人」ではない。欲望と貪りに満ちている人が、どうして「道の人」であろうか?(ダンマパダ264)》
つまり、「頭を剃って出家して僧侶になっても、堕落した生活を送る者は僧侶とはいえない」と、釈尊は語っている。高校球児同様に、現代日本の僧侶は「形」が大事なのではない。いかに、正しい生活を送り、苦しむ人々に寄り添えるか。僧侶の本質が問われている。