突然の身分証確認で絶体絶命

翌朝早くミュラー宅で夫妻が目を覚ましたとき、彼はすでに出かけたあとだった。夫妻の次の潜伏先を確保するため、一足先に出発していたのだ。クラカウアー夫妻は、近所の人びとに姿を見られないうちにと考え、身支度を整えると急いでミュラー宅を出た。次の潜伏先は、シュツットガルトから20キロほど離れたエスリンゲン郡にあるケンゲンという町だと聞かされていた。

ミュラー牧師とは、午後2時にシュツットガルト中央駅で落ち合う約束であった。クラカウアー夫妻は午前中は市街を散策し、昼頃、シュツットガルト中央駅に到着した。待ち合わせ時間まで、そこで時を過ごすつもりだった。だがその時、事件が起こった。

駅に到着してから5分も経たないうちに、パトロールの警察官が4人現れた。警察官は声を張り上げ、その場にいた人びと全員に命じた。「警察だ! 身分証明書を確認する」。

ひとりの警察官が夫妻に近づいてきた。

「身分証明書を出してください」

警察官が言った。

「今、手元にもっていないんです」

マックスはか細い声で答えた。アッカーマンから譲り受けた偽造証明書はすでに手元になかった。出来のよくない証明書をもち続けることに恐怖を覚えた妻の訴えで、ベルリンを発つ直前、アッカーマン自身に送り返してしまっていたのだ。

警察官は無言で駅構内の警察官詰所にふたりを連行した。

尋問が始まった。氏名は? 住所は? どこから来たのか。目的地はどこだ。職業は何か。次々に質問が浴びせられた。マックスは自分はアッカーマンだと名乗り、偽りの住所を伝えた。次々に嘘の答えを返しながらも、内心は絶望に押しつぶされそうだった。こんな程度の嘘は、警察にかかればすぐに発覚するに決まっているからだ。

警察は夫婦をユダヤ人と見抜いたのではないか

警察官はふたりのポケットの中を探った。マックスの財布のなかから古い食料配給券が出てきた。アッカーマンが与えてくれたもので、彼の名と住所が書かれていた。ベルリン市テンペルホーフ、ベルリン通り56番地。そこは、最近の空襲であたり一面焼け野原となった場所であった。

マックスはふと、この状況を利用できるかもしれないと思いついた。彼は言った。連日の空襲のせいで、妻がすっかり心身を病んでしまった。ここヴュルテンベルクにやってきたのは、妻を静養させるためだ。ここならベルリンのように絶えず爆撃にさらされる心配もなく、妻が健康を取り戻すにはうってつけだ。もちろん私自身は、仕事があるから、妻を静養先に送り届けたらすぐにベルリンに戻るつもりだ。

警察官たちはマックスの作り話を信じたらしい。穏やかにこう言った。

「アッカーマンさん、不注意でしたね。どんなことがあっても、外出のときは身分証明書を携帯しなくちゃいけません」

さっきまでの尋問とはうって変わった丁寧な言葉遣いだった。

岡典子『沈黙の勇者たち』(新潮選書)
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ふたりは無事に釈放された。妻のカロリーネは、緊張から解き放たれるとひきつけを起こしたように泣きじゃくった。

だがマックスには、警察官がなぜふたりを釈放してくれたのかわからなかった。身分証明書も携帯せず、見るからに怯えた様子のふたりを彼らが怪しまなかったはずはない。それにマックスの作り話など、真偽を確認しようとすれば方法はあったはずである。だが、彼らはそうしなかった。

のちにマックスからこの話を聞いた友人たちは言った。おそらく警察官たちは、尋問の途中で夫妻がユダヤ人だと気づいたのではないか。だから作り話に騙されたふりをして見逃してくれたのだろうと。実際、警察官のなかにも、内心ではナチスの政策を快く思わない人びとはいたのである。

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