しかし、案の定というべきか、部屋を出る日になって、返さないと言い出したのである。約束が違うではないかと食い下がったが、一度渡したお金は絶対に返さない。いくら約束を思い出させようとしてもあれこれ言い立てて全く取り合ってくれない。

相手の手に握らせてしまえば、それを取り返すには力ずくで取るしかない状況になった。もちろんそんなことはできない。私はただ、決して物理的に相手に現物を握られるような状況に陥ってはならないのだという教訓のみをかろうじて得た。

ロシア人が「ケンカ上手」と言える理由

ロシア人は「交渉」という名の「ケンカ」が上手である。

シルエットのモスクワクレムリン
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交渉もケンカも、いざこざを解決するためか、何かを分け合う状況にあるときに使われる手段である。平和的(非暴力的)であるか、暴力的であるかの違いである。交渉は非暴力的な手段であるが、勝つためのやり方はよく似ている。

交渉に勝つには、まず相手のことをよく調べなければならない。これは相手の弱点や急所を知るためである。相手の主張、その根拠、背景事情など、情報は多ければ多いほどよい。そこには交渉のスタイル、そして意思決定のスタイルも含まれる。

交渉は基本的にチーム戦なので、誰が決定権を持っているのか、誰に発言力があるのか、誰が誰の側近なのか、誰とつながれば相手の中枢に近づけるのか、そういうことを知ることができれば、有利な立場に立てるだろう。もちろんそれを知るには時間がかかるし、手間もかかる。そのために、外交官や外交官のふりをした諜報員がいるのである。

私がモスクワ大学アジア・アフリカ諸国研究所で研修していたとき、長く国連で勤務していたという先生の授業を受けたことがある。周りは全員ロシア人学生である。その先生は、自分が専攻している国における組織の特徴と意思決定のスタイルについて調べてくるように、という宿題を出した。正直なところ、私はこの課題の意味がよく掴かめなかった。

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私は自分がどんなことを答えたか覚えていないが、先生はそういうことを聞きたいのではないという顔をして、次に日本専攻のロシアの女学生を指した。

彼女は、日本の組織は責任の所在があいまいであり、迅速な意思決定ができない。何かを決めたいと思えば、少しずつ関係者に理解を求めていき、雰囲気を醸成していくことが必要だ。このプロセスを日本語で「根回し」というのである、と述べた。先生はなるほどとうなずいた。私もなるほどとうなずいた。