国語が「心を強くする」役割を担ってきた

もし教育政策を決めている人たちが、「文学」は実用的ではないと考えているなら、実用的とか社会で役に立つ、ということをあまりに安易に考えすぎていると思います。

いま日本社会で求められている力は、パソコンの取り扱い説明書を理解したり、お客さんの注文にマニュアル的に応えたりする、といった能力ではありません。そういったAI(人工知能)にまかせられるような能力ではなく、インターネットで「検索」しても出て来ないような、「想定外」の状況にどう柔軟に対処していけるかどうか、という「生きる力」です。その土台となるのが「心の力」なのです。

心が弱ければ、どんな仕事も長続きしません。逆に心が強ければ、失敗をしてもそこから学び、仕事を覚えていくことができます。心を強くするのは、道徳だけでは担いきれません。そもそも高校に道徳は、教科としては存在しないのです。これまでその分野を担ってきたのが、実は国語だと私は思っています。夏目漱石の『こころ』や芥川龍之介の『羅生門』や中島敦の『山月記』を読むことで、人間の心の複雑なメカニズムを学び、心の基礎体力をつけることができるのです。

仕事のできる人は「人の気持ちがわかる」

仕事をする上で、国語力は非常に役にたちます。というのも、仕事で重要なことは、相手の感情の動きをとらえることだからです。会議の中でも、いまこの人の心情は賛成に傾いているのか、反対に傾いているのか、様々な心理的要因を汲み取りながら、その場で臨機応変に読み取ることができない人は仕事が不自由になります。

会議室で説明するビジネスウーマン
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売る側から買うお客さんの側に、立場を変換して考えてみたり、柔軟に提案の仕方を変えてみたり、といったことは、これからますます大切になってくる「コミュニケーション力」の基礎です。コミュニケーションの基礎になるのは、「人の気持ちがわかる」ということです。

「ああ、こういうことを言うと、人は傷つくんだな」とか、「今この人はこんな表情をして、言葉では表面上こんなことを言っているけれど、内心はこうなんだろうな」とか、心の繊細な部分を感じ取るのは文学の専門なわけです。

そうしたことは契約書や会議の議事録では勉強できません。すぐれた文学は、読者の目の前で事態が同時進行的に動いていくわけですから、まさに「生きた教材」なのです。