※本稿は、齋藤孝『格上の日本語力 言いたいことが一度で伝わる論理力』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
高校現代文が「文学国語」と「論理国語」に分かれる
文学というと「非実用的」「不要不急」というイメージを持ってしまう方が少なくないようです。これはとても残念な誤解です。
その誤解が、いま国語教育の現場でも広がっています。高校の現代文の領域では、契約書や自治体の広報といった実用文の読解を中心とする「論理国語」と、これまでのような小説などを中心とした「文学国語」に分かれ、大学入試や単位システムの問題から、ほとんどの生徒が「文学国語」を取らず、「論理国語」のみを学ぶことになるのではないか、と危惧されています。
これは文部科学省が2018年に告示し、2022年春にスタートした新学習指導要領にもとづいた政策です。
こうした選択制がはらむ危険性はきわめて高いと考えます。というのも、選択しなくて済むなら生徒は自分の苦手な科目は勉強しなくなってしまうものだからです。論理国語のみを選択すれば文学国語は弱くなり、文学国語のみを選択すれば論理国語が弱くなるのは必然です。私は、「論理国語」と「文学国語」を選択制にするのではなく、これまでのように高校1年では「国語総合」を必修とした上で、2年生以降で、発展的な内容を学ぶ際も、文学的テキスト、評論文、古典など満遍なく読むようにすべきだと思います。
実用的な文章が必要なら、加えればいい
もし実用的な文書を読む力や、社会の中で起きていることに対応していくことがより必要だ、というなら現状の国語の中にそういう部分を加えれば良いわけです。文学的な文章と、実用的な文章を分け、ゼロかイチかを迫るような必要はありません。
思い起こすのは、1990年代から高校で本格的な理科・社会の科目選択制が採り入れられた失敗例です。たとえば、1970年頃までは普通科に通う高校生の9割が物理を履修していましたが、現状は1割台に低下しています。
学校というのは本来、家庭ではうまく継承することのできない、文化的に非常に価値のある「文化遺産」を継承していく場所なのです。物理学という、人類の智が集められた文化遺産を、高校生の8割以上が勉強することなく卒業していくのは由々しき事態です。国民のほとんどが「物理」の何たるかを知らないのに、「科学立国」を唱えてもムリがあります。
同じように、数学も文化遺産ですし、国語においても『源氏物語』や漢文、そして夏目漱石に代表される近代文学は文化遺産です。生徒に得意分野だけをつまみ食いさせるのではなく、すべてを必修で学ばせるべきです。