6、7歳の子弟は毎日「什の掟」を読み上げる
そんな正之は家中に対して、全15箇条の家訓を発した。特徴的なのは第1条である。
「一、大君(将軍)の儀、一心に大切に忠勤を存ずべし。列国(諸藩)の例を以て自ら処すべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」
「会津藩士は、まず将軍への忠節を第一とし、他藩と同じように行動せず、あくまで徳川家に尽くし通せ」
というのが、その大意である。
自分を会津23万石の大大名に抜擢してくれた家光に感謝し、その恩にいつか報いるため、徳川将軍家に対する忠勤を命じる文言を家訓の冒頭に持ってきたのであろう。
そんな会津藩の教育だが、10歳になると家臣全員が藩校「日新館」に入学するが、すでに子弟の教育はそれ以前からはじまっていた。
男児は6、7歳になると、城下の寺子屋や私塾に入り読み書きを学ぶが、同時に「什」と称する10名前後のグループに属し、毎日いっしょに遊ぶ。リーダーを什長と呼び、9歳児がその任に就く。什長は毎日仲間に向かって、以下の「什の掟」を読み上げる。
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
三、虚言を言うことはなりませぬ。
四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
五、弱い者をいじめてはなりませぬ。
六、戸外で物を食べてはなりませぬ。
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。
ならぬことは、ならぬものです」
掟を破った子は「手あぶり」「雪埋め」「派切り」に…
このとき子供たちは一条読み終わるごとに、「はい」と返事をし、丁寧にお辞儀をする。
この後、什長は全員に向かって「昨日から今日まで、掟に背いたものはあるか」と問う。もし違反を告訴されたり、自ら告白した者がいたら、什長が本人に問いただし、みなで制裁方法を決めた。什の仲間で判断できないときは、10歳以上の男性に判断を仰ぎ、その決定にしたがった。
処分は、什の仲間に謝罪する「無念」、手のひらや甲を思い切りたたく「しっぺい」、手を火鉢のうえにかざす「手あぶり」、雪の上に押し倒し、上から雪をかぶせる「雪埋め」といったものがあったが、最も重いのは「派切り」だった。仲間から絶交され、什から追放されてしまうのだ。
派切りされた子は、父や兄が本人同伴で什の仲間に謝まり、その罪を許してもらうのが慣例だった。
さらに藩士の子供たちは寺子屋や塾から自宅に戻ると、まず仏間へ入って切腹の作法を練習する。「いつ藩命で切腹を申しつかっても、武士らしく自害できるように」との考えからであった。